
清水沢より道道を南に下った道路脇にある妙園寺。
その境内に建立されている石碑を確認してきました。

「馬頭観世音」
清陵町が川向といわれていたころ、17戸の農家がありました。
当時の農家は、農耕や荷物運搬、推肥生産など馬はなくてはならないものでした。
この馬に感謝をこめて、清陵小学校グランド上部に建立、その後、沼ノ沢一部へ向かう坂道の東側、源藤杉太の土地に移転しました。
その後、炭鉱住宅が建築され離農者がふえたので、夕張川とシホロカベツ川の合流点付近の松田農場に移転。
その後、粗末になってはいけないと、更にここ妙園寺境内に安置されました。
毎年1度、関係者が集って供養を続けているそうです。

もうひとつ説があるようで、清水沢農地の開拓者たちが清水沢小学校裏の畑地に建立したものといわれ、その後ここ妙園寺境内に移転されたというものです。
「八幡賢風刻」と刻まれている以外、正確な建立年など不明です。
石碑のひび割れが目立ってきたようです。

「夕張川吊橋の記念碑」
昭和四年十二月建立記念
向 渡 橋
11名のお名前が刻まれています。
大正時代からの入植者は川向(清陵町)に行くのに、渡舟を使い、冬は一面に張った氷の上を人馬ともわたっていました。
その後、清水沢発電所が完成すると、その冷却水放水のため川が凍らなくなりました。
川向の入植者たちは吊り橋を作る計画をたて北炭と交渉をしました。
その結果、北炭から資材の提供をうけ、北沢食品付近から清陵町三区に入植者たちの労力奉仕で、約145.72メートルの吊り橋が完成しました。
この吊橋は馬も渡ることができ、川向にとっては画期的なものでしたので、南清水沢の斜面に、この記念碑が建立されました。

しかし、わずか3年後の昭和7年8月の大洪水で橋ゲタが倒され渡ることができなくなってしまいました。
現清陵橋のところに木橋ができつつあったので、交通に不自由はありませんでした。
この記念碑は斜面に建立していたので、倒壊しそうになっていたため、昭和41年7月10日に清陵町の源藤西左ェ門の宅地内に移転されました。
その後、平成になってから、ここ妙園寺に移転されたそうです。

- 2012/09/23(日) 20:40:25|
- 清水沢
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2012年9月のカレンダー壁紙を作りました。
デスクトップにお使いください。

夕張の隣町ではありますが、春にご紹介した大和小中学校です。
わたしにとっても忘れられない場所となりました。
記事の合間に、毎月カレンダー壁紙を作りますので、活用してください。
- 2012/09/09(日) 02:49:01|
- その他
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明治21年に、坂市太郎一行が発見した石炭の大露頭。
いまは、天然記念物として北海道指定文化財に登録されています。
石炭の歴史村内、炭鉱生活館のすぐ裏側の敷地内に広がっています。

シホロカベツ川沿いに南側へ、天竜橋に向かって石炭の露出が見られます。
この写真の手前に、穴をブロックで塞いだような箇所がありますが・・・
なにやら折れ曲がった看板もみえます。

『古 洞 天竜坑坑道跡』
歴史館の係の方に確認すると、やはり最初の天竜坑だそうです。

まさに、石炭の露出している部分をめがけて掘り進んでいったのですね。

後の天竜坑。
上の古い坑口は、このすぐ上の露頭のところです。

天竜坑の目の前には坑口神社の跡がありました。
これは昭和になってから作られたもので、最近まで祠も残っていたそうですが、残念ながら祠は数年前のシホロカベツ川の増水で流されてしまったそうです。

明治24年に作られた、第一斜坑の坑口神社(夕張最初の登川神社、のちの夕張神社)とは違います。
その場所は、後日レポートしたいと思います。

昭和15年に、大露頭の真下に模擬坑が作られました。
このように、人の出入りが出来るように扉がついています。
ちょっと開けてみたら、開きました。
中を覗いてみますと、どうなっているのでしょうか。

坑口が見えました。
他は物置のようになっています。
さすがに階段を降りる勇気はなかったので、ここで引き返します。
ここでご紹介してしまい、扉に鍵がかかってしまったらすいません。
- 2012/08/10(金) 09:49:23|
- 社光・高松・小松
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