
坂 市太郎(ばん いちたろう)
1854年(安政元年) 岐阜県大垣市(美濃大垣藩)に生まれる。
武士の子として厳しく育てられ、藩の壬生義塾で高い学力を身につけます。
明治新政府が北海道を開発するため優秀な人材を育成する開拓使仮学校(東京芝増上寺)に、18歳の坂は明治5年に入学し、新しい時代を切り開く意欲に燃えていました。
その講師としてアメリカから招かれたのが、鉱山学者のライマン先生36歳でした。

カリキュラムは、5年はかかるであろう各専門分野を3年で習得してもらうという厳しいものでしたが、坂は全力で学び2ヶ月で学費が免除されるほどの成績を上げます。
しかし、このような机上の学習ばかりではなく、早く実践に移したいという欲望がわいていました。
それから1年半後、開拓使からライマン先生に北海道地質測量の命が下りました。
坂は成績優秀な学生13名に選ばれ、一同興奮の中、明治6年3月に北海道へ向けて出発しました。

春になり、アイヌの青年を案内役で雇い、ライマン探検隊は出発しました。
空知、上川、苫前まで縦断しましたが、どこも原始林そのままの場所で背丈ほどある笹薮を歩き、熊の出現におびえながらの探検でした。
このような森の中で、開発に有用な場所を特定することは非常に困難でした。

ある日、ライマンが貴重な発見をします。
第三紀地層と言われる石炭がある層でした。
この地層は南北に横断しているものと思われ、奈井江、美唄、砂川あたりを調査して、ついに三笠の幌内炭田を発見します。
一気に士気が盛り上がり、ライマンはもっと奥には大炭層があると確信し、舟で夕張川を遡ることにしました。

しかし、夕張川は流れが速く逆らって上流に向かうのはとても困難でした。
そして、滝ノ上の千鳥が滝で完全に前進できなくなってしまい、これ以上進むのは無理ですと案内役のアイヌの青年にたしなめられ、坂たち学生は尚も前進を訴える中、ライマンは全員の安全な帰還を優先に考え、宝の山を目前に撤退を決断したのでした。
「今はやむなくここから引き返すが、一大炭田は必ずこの上流に続いているに違いない。ここは地質の関係より推察して確実である。機会を見てぜひ詳しく調査するように。」
帰りの舟は、一同無言で涙をうかべていたそうです。
舟にうずくまり水面を見つめているライマン先生を見て、坂は決心しました。
一番悔しいのは先生だろう。いつか必ずあの岩礁を乗り越え、先生が実現できなかった発見を成し遂げようと。
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それから14年の年月が過ぎ、坂は中央省庁の官僚になっていましたが、明治20年 北海道庁の技師としてこの地に戻ってきました。
北海道庁は、夕張の石炭を発見しようとそれまで何度も探検隊を送っていましたが、すべて失敗しており、いまだに夕張川上流に到達したものはいませんでした。
夕張の石炭は誰も見たことのない、ほとんど伝説と化しており、政府の鉄道計画も空知炭田の見積もりが夕張がわからないために進まない状況が続いていました。
そんな混沌とした状況を打破するべく、坂が周囲の反対を押し切り夕張探検に志願します。
明治21年 探検の許可が下りました。
5月、前回の失敗から川ではなく、陸地を進むルートを選び、坂のほかに和人1名アイヌの若者7名という探検隊は、既に開鉱していた三笠の幌内炭山を南に向けて出発しました。

奥地に進むにつれ、大木が林立して笹薮だらけになり、日光が陰った薄暗い森を進みました。
途中、岩が裂けたようなとてつもない谷底の崖にぶちあたりました。
もうここから先に進むのは、坂以外の全員が不可能だと思いました。
坂は、太いナラの木を倒し崖に架けるように指示し、その木をわたる決意をします。
その丸太の橋を誰も渡ろうとしないのを見て、坂は命綱なしで一番で渡ってお手本になりました。
一歩間違えば谷底に転落即死という状況にもひるまず進む市太郎の粘り強さに圧倒され、全員が丸太を無事に渡りました。
そうして幌内を出発して一週間が過ぎた頃、森の先に川のせせらぎが見えました。
あそこで一休みしよう。
その河原について皆が腰を下ろしたとき、坂が突然走り出しました。
「何か光ってるぞ!まさか!おーいみんな、石炭だ!!」
それは、シホロカベツ川沿い高松の層の厚さ7メートル、瀝青炭の大露頭でした。
全員が足の痛みも忘れて走りより、両手を広げて大発見をした坂を祝福しました。
同行したアイヌの仲間も歓声を上げ涙を流して喜んだそうです。
坂市太郎35歳のときの快挙でした。
「ライマン先生の夢が叶いました、やはり夕張に石炭がありましたよ。」

夕張の石炭発見のニュースは全国に轟き、2年後には採炭所が開設されることになりました。
それから坂は、困難といわれた夕張川上流の地形の測量も達成、成功しました。

大炭層の発見から5年後、明治26年40歳で道庁を退職しました。
その後は、若かりし頃自分が探検して回った歌志内、赤平、夕張の炭鉱開発を個人で乗り出し、大正6年には上歌志内に坂炭鉱株式会社を設立、実業家として炭鉱開発の盟主となりました。
武士の子として、地質学者、探検家、実業家として、北海道に魅せられ類まれな人生を送った坂市太郎は、大正9年この世を去りました。 享年66歳。
参考資料:夕張市史、北海道100年物語
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- 2012/01/28(土) 15:06:00|
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太字の文小樽市保健所衛生課長であった板輝彦氏は帯広畜産大学獣医学科を卒業された後,小樽市民の困惑している問題解決に尽力されました.その中でも,世界的なスズメバチ研究者であった故松浦誠三重大学教授(北大理学部大学院修了)の業績を受けて,行政として問題解決のため,全国の担当者への指導に当たりました.私の人生の大恩人です.多くの皆さんに板輝彦さんの業績も知っていただきたい.
- 2020/01/01(水) 17:31:43 |
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- 猪股寛 #9mni3uco
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