夕張出身の、ペーパームーンさんから2年前に貸していただいた冊子です。
「白峰丁未が里 三百余年伝 せんの木物語」
平成14年 石炭の歴史村観光発行の、史実を基にしたドキュメントです。

物語は、江戸時代の1662年頃、夕張がまだ全くの未開の森だったころに始まります。
あの松浦武四郎が生まれる150年ほど前です。
砂金取りで夕張川を遡ってきた松前藩の和人にアイヌの人々が道案内で随行してきました。
シホロカベツ川でも砂金が探されたが、ここにはそれはなく和人たちは引き返していきましが、アイヌの一部は、ここは人跡未踏の新天地として住み着きました。
シャコロモとワブナの夫婦が丁未に住み着き(旧一鉱事務所付近)、これが丁未の最初の住人だったとのことです。
鹿を取って食料にして、子供を育て、シャクシャインの乱で招集されたりしましたが、平穏に暮らしていました。
その子孫も、社光や高松に入植してきた鷹狩りの和人と激突して勝利したり、自分たちの縄張りを守っていました。
それから更に120年が過ぎ、明治13年、子孫トラパミがヒグマに誘われ、長男ショウラムが7年かがりでそのヒグマを日高で仕留め仇討ちし、途中恋仲になったタピカをつれてやっと丁未に戻りましたが、両親はすでに亡くなっていたそうです。
シャコロモから続いた丁未アイヌの歴史は、明治20年ショウラムとタピカが丁未を離れ一旦終わります。
その翌年、明治21年に坂市太郎が大炭層発見。
急速に炭鉱開発が進んだ丁未は一変し、多くの人々が入植してきました。
明治25年に一番坑で大爆発がおき18人が死亡しました。
この犠牲者の中に芽沼炭鉱から移ってきたアイヌの若い夫婦がいました。
その夫婦の5歳(男)4歳(男)2歳(女)の幼い子は、それぞれ引き取られ行方がわからなくなりました。
それから15年後、幌内から丁未部落に入ったアイヌの青年が、その飯場で働いていたアイヌの若夫婦が自分の弟と妹と知り、兄妹夫婦でありながら本人たちはそれに気がついていないことに愕然とします。
そう、この3人はあの幼い兄弟妹だったのでした。
あまりにも残酷な事実に兄弟の名乗りをあげることも出来ず、その事実をこの夫婦の仲人だった飯場の親分、橘内次助(後の町会議員)にだけ告げたのでした。
若夫婦には、あと5ヶ月ほどで出産予定がありました。
この青年は、
飯場の横にせんの木を植えて、二人の幸せを祈り合掌しました。
そして、丁未を去り二度と戻っては来なかったそうです。
シャコロモから続いた丁未アイヌと、このアイヌ3兄弟が同族である証拠はありませんが、両親が丁未坑の開坑を知り、ふるさとを思い芽沼から戻ってきたという可能性もあるのではないでしょうか。

この写真が、アイヌの青年が植えたせんの木だそうです。
明治40年に撮影されたものです。
資料では、今でも丁未2区の矢本文平氏の横に大木となって実在している。と書かれています。
「二度とこのような不幸な夫婦が生まれないように」、このせんの木は丁未で大切にされたそうです。
大盆踊りも、このせんの木のある広場で行われたそうです。
この写真と情報を頼りに、せんの木を探しに行きました。
ヒントは、丁未の崖と山の稜線と角度、木は小高い場所で奥側低地に飯場があったと思われる広場があった場所。
なにより、この角度で地形が一致する場所を探しました。
丁未2区といえば、丁未小学校や郵便局のあった場所です。

この木しかないと思いました。
あたりに雑木林はなく、地形が一致する箇所はここしかありません。
もう少し崖が近くに見える場所のような気もしますが・・・
せんの木をご存知の方がおりましたら、お知らせいただきたいと思います。
ちなみに、せんの木とはどんな木なのか検索してみました。
「栓の木」別名「針桐」

ウコギ科の落葉高木。山地に自生。枝にとげがあり、葉は手のひら状に裂けていてキリに似る。7月ごろ、黄緑色の小花が球状に集まったものが傘状につき、藍色の丸い実を結ぶ。材をげた・家具などに使用。栓(せん)の木。やまぎり。

7~8月には枝先にこのような花が咲くそうです。
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- 2012/01/26(木) 22:31:55|
- 丁未・錦・富岡・福住・住初
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