
日吉のユーパロの湯の付近は、昔は北炭の大規模な化成工業所がありました。
夕鉄のΩ(オメガ)カーブが見えます。
写真向こう側は千代田の山肌でしょう。
明治35年に北炭が追分にコークス工場を設立し、続いてこちらにコークス工場を建設しました。
昭和9年に化成工業所としてリニューアルしましたが、戦時中は夕張製作所に譲渡しました。
昭和19年4月に再び接収し、石炭化学分野で本格的な幅広い生産活動をしました。
後期には、石炭液化の近代的工場もありました。
夕鉄の若菜駅から運搬用専用線も接続されていましたが、時代の移り変わりとともに昭和53年に閉鎖されました。
化成工業所の閉鎖後は、石炭技術研究所の石炭ガス化試験工場として使用されました。
幸福の黄色いハンカチで、クライマックスで高倉健が「北炭の工場の前を大きく左に曲がり、ずっと登り坂だ」と言った工場は、この化成工業所のことです。

ソルベー式コークス炉

コークスの窯出し

ベンゾール工場

石炭酸工場
~北炭70年史から
現在の化成工業所跡
大煙突の1本だけが残されていて、隆盛だった往年の姿を後世に伝えています。
昭和35年 建造
高さ63メートル、地面側直径5メートルという巨大煙突です。
ネットの一部では高さ30メートルという説がありますが、完全に間違いだと思います。

◎追記
2009年11月11日
埼玉県戸田市に本拠を置く脱臭装置製造「北炭化成工業」は、11月6日付で埼玉地方裁判所へ破産申請を行い倒産したことが明らかになりました。
1963年に「北海道炭礦汽船」の石炭化学研究所における、脱臭剤・脱臭装置の開発を前身として、1965年に設立。
活性炭吸着装置など「炭」を触媒にした脱臭装置に強みを持つほか、生物脱臭装置、薬液洗浄塔、触媒燃焼脱臭装置、回転蓄熱式燃焼脱臭装置等も製造し、2000年に起きた三宅島噴火の復興活動に同社製品が使用されるなどして、知名度を上げていました。
しかし、景気悪化により売上が減少したことに加えて、取引先の倒産により不良債権を抱え込んだことで資金繰りが逼迫し、今回の措置になった模様。2009年6月末時点での従業員数は56名。
東京経済ニュースによると、負債総額は約22億円。
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- 2012/01/07(土) 03:10:56|
- 常盤・若菜・日吉
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わかりました。
わたしも、それが必要だと思っていました。
昭和35年くらいの地図があれば一番わかりやすいのですが、なかなかないのです。
探してみますので、しばらく待っていてください。
- 2012/01/08(日) 19:20:11 |
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- tomato #-
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確か、清水沢地区はそれぞれに、お風呂があったと思います。
3区の場合、夕張川の近くにありました。
そうですね、今時分、家族で銭湯に行きました。料金があったのか憶えていませんが、男湯から、女湯、おーい、もうそろそろでるぞー、なんて声掛け合って、、そして外にでたら、洗った頭が凍ってカチカチ、タオルもバリバリ、
一つ、お願いがあります。
当時の清水沢地区の地図がありますでしょうか!!もし、地図が有れば、その頃の記憶が鮮明に甦ると思うのですが!無理言って申し訳ありません。
- 2012/01/08(日) 12:46:08 |
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- K #.fR4.oCU
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わたしの頃は、コークスを使っていたと思います。
物置の隣に木造の傾いた貯蔵小屋があって、そこから取り出して使っていました。
黄色いハンカチの炭住の物置そのままあれでした。
札幌の石油暖房の団地から夕張に引越ししてきたわたしは、時代が逆戻りしたみたいな驚きを感じました。
トイレも汲み取り、風呂もカビの生えた木製風呂とグレードダウンし、母親は夕張にいい思い出はない。と言っていますが、わたしは子供だったので、これが楽しかったのですね。
- 2012/01/07(土) 17:46:05 |
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- tomato #-
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清水沢3区、炭住時代、石炭貯蔵庫は台所の横にあり、多分4畳位のスペースとして記憶しています。
冬には馬車で石炭が供給されていました。一台につき、10円?ともかく只当然のような価格でした。
子供時代は石炭燃料で、コークスは無かったような気がします。
ガンピといって、白樺の樹皮剥がしたもの、これが炊きつけといって、石炭の発火剤でした。
- 2012/01/07(土) 15:05:01 |
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- K #.fR4.oCU
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