あの頃の夕張を求めて

澄みきった空気、山並みに囲まれた豊かな自然の中で、炭鉱で開かれた先代の営みの上に、貧しくものびのびと成長した、そんなあの頃の夕張を探す画像ブログです。

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松浦武四郎の探検

ここで、夕張のルーツを探る旅をしたいと思います。
室町時代には、和人(松前藩の前身)が北海道の南でアイヌ人との交易を行っていました。
このころの空知は、まったくの未開発の森林地帯であり、アイヌの人たちの暮らしの場でした。
江戸時代になり、ある大探検家が蝦夷にやってきました。

松浦武四郎
画像0126584
江戸時代後期に、北海道 樺太 国後択捉を調査した探検家。
文化15年2月6日(1818年)、三重県松阪市小野江町の松浦家の四男として生まれました。
7歳から読み書きを覚え、16歳で平松楽斎の塾を退塾し、17歳で家出同然で放浪の旅に出ます。
江戸、四国、九州、対馬から大陸を目指しましたが、鎖国のため断念しました。
江戸では幕府の老中水野忠邦の屋敷に奉公したこともあったようです。

武四郎26歳のとき長崎にいたころ、ロシアの船が蝦夷を狙って北方に接近しているという話を聞いたことが人生の転機になりました。
当事、蝦夷の地は皆よくわかっていなくて、まず自分の目で確かめようと思ったのだといいます。
長崎から蝦夷に向かう途中、三重県の実家に9年ぶりに戻ると両親は既に亡くなっていたそうです。

武四郎28歳のとき、ようやく蝦夷に渡ることができました。
当時、松前藩の領地に個人で出入りするのは御法度で大変なことでした。
隠密として松前藩につけ狙われながら、アイヌの人々に案内してもらい探検しました。

Yuubari diary
個人として3度、幕府の役人として3度、計6度の蝦夷探検の膨大な記録の中に『夕張日誌』があります。
文才にもすぐれた最初の3回の探検が江戸で大変な評判になり幕府に取り立てられ、後の探検の実行に至ったのだそうです。
時代は黒船がやってくる時代になっていました。
武四郎41歳になっていました。

古地図2
夕張の調査は、安政4年7月8日に夕張のアイヌ4人を雇い石狩を舟で出発。
石狩川をのぼって夕張川に入っています。
ここでいう『夕張』とは、石狩の東側を広い意味で夕張と使われており、長沼・栗山・千歳・夕張・穂別、このあたり全体を指しているようです。
以下、武四郎の夕張に関係する調査を時系列でご紹介します。

■安政4年7月
8日 石狩を出発
9日 石狩川から江別川に入り、夕張川に入り漁村カマカで宿泊
10日 長沼・馬追を通過し上陸、南角田の円山付近で宿泊
11日 更に夕張川をのぼり滝ノ下で宿泊
12日 滝ノ上の於兎牛で宿泊
13日 紅葉山のキヨロカルへツ川口(夕張川のこと?)まで到達、於兎牛まで戻り宿泊
14日 滝の上(カムイコタン)を過ぎてマツクツナイで宿泊
15日 角田南の円山へ戻り宿泊

武四郎はアイヌ語を話せたので、地図にはアイヌ人からの伝聞も書き込みされており、河川の状態が現在とほぼ一致している正確なものでした。
地図では、現在でも馴染みのある地名『コトニ』『トイヒラ』や『シコツ湖』『アツマ』などが読み取れます。
アイヌの人々が呼んでいた地名を、そのまま引用したのだとわかります。

チズ
松浦武四郎が現在の夕張に入ったクライマックス、7月13日の日記を引用します。

▲13日、南岸を上る、雑樹陰森として暗き事甚し、ハンケクルキ川ヘンケクルキ川両岸○○とし歩行悪けれども、樹木茂れるゆえに下草なくして足元よし、向岸にキヨロカルベツ川(夕張川のこと?)というの有り、此山惣て椴にて高き所には樺多し。
(中略)
ハンケマヤ川ヘンケマヤ川此の辺惣て岩山、樺、椴、蝦夷松のみあり、過ぎてハンケホリカユウハリ川ヘンケホリカユウハリ川何れも山峡を屈曲○転し行き、源はアシヘツの方に到る。
過ぎて二股此所正面に丸く見ゆる大岳あり、其の二股より右に入るをモユウハリと言い、源は沙流の源と向背し、十勝領サヲロの後ろに入り、左はシユウハリ其の源、剣峰を立並たる如き高山の間に入りてソラチの方に到る。
二岳は其の量源の間に突出す、是れ蝦夷第二の高山にて (略)


※注意
『夕張市史』には、キヨロカルベツ川は沼ノ沢と紅葉山の中間と解説されているのですが、その間には真谷地川(旧パンケマヤ川)しかなく、地理的な整合性がないというか存在していなく、キヨロカルベツ川とは十三里を流れている伊藤の沢川のことではないかと思います。
『夕張日誌』によると、武四郎は滝ノ上於兎牛沢から夕張川南側を徒歩で登ってきており、向こう岸に川の支流が見えると書かれています。
舟で千鳥が滝を下流から超えたとは考えにくく、手前で降りて南側の川岸を歩いたと思われます。
また、徒歩か泳いで夕張川の北側の岸にたどり着いたとは考えにくく、紅葉山で引き返したのではないでしょうか。
引き返した理由は舟がないからではないでしょうか。
そうだとすると、武四郎の最終到達点は紅葉山ということになります。
武四郎の河川図は、自分が目で確認した川は小川でも正確に書かれていますが、パンケマヤ川やペンケマヤ川が既に書かれていなくて、その向こうは正直勘で書いたような感じに見えます。
クルキ川の名前が既に間違っていて、どうもここまで到達していないような気がします。
これについては仮定ですので、ご研究の方々のご意見をお願いいたします。


安政4年7月10日 宿泊の地 南角田円山付近
画像 010
安政4年7月11日 宿泊の地 滝ノ下付近
画像 021
安政4年7月12日 宿泊の地 滝ノ上 於兎牛付近(画像の奥側)
画像 022

mathuuranozu.jpg
幕末の頃には、大久保利通、西郷隆盛、木戸孝允といった人びとも武四郎の家を訪れ、蝦夷地のことについて情報を得ていました。
武四郎は明治新政府の「蝦夷地開拓御用掛」に登用され、蝦夷地の新名称を”北加伊道”と提案し、北海道の名称のルーツといわれています。

江戸時代のようにアイヌ人を酷使するようなことをやめるよう政府に提言しましたが聞き入れられず、職を辞して抗議しました。 アイヌの人々の悲惨な生活実態や和人の商人のひどさを見てきた武四郎は、アイヌ人の権利をなんとかしたいという強い信念がありました。
明治21年(1888年)2月10日東京神田の自宅で脳溢血により亡くなりました。


つづく
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夕張は人生のふるさと。鹿ノ谷で過ごした楽しかったあの頃を決して忘れません。現在は札幌在住。
往年の夕張を追い求めています。
上の写真は探索専用パジェロミニ。
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カメラ:Nikon COOLPIX P500

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