
丁未地区周辺には、歴史を物語る石碑が数多く存在する。
いや、むしろ石碑からでしか町の存在を確認することができないと言ってもいいかも知れない。
『秋桜塚』碑 昭和61年10月1日 建立
昭和59年、夕張新炭鉱93名死亡の事故を受けて、会社社長でレコード歌手であったある方が『夕張哀歌』という曲と合わせて石碑の建立を市に申し入れ実現した。
除幕式には遺族など60人が列席したそうです。
趣旨としては、夕張の炭鉱殉職者全体を弔う意味あいのようだ。
自身の歌の宣伝という意味も含まれていたのかも知れない。
それにしても巨大な石碑であり、一体いくらかかったのか想像も出来ないくらいだ。

『忠魂碑』 大正元年11月 建立
本町東山聖苑に存在していた石碑が、東山神社の廃社ののち、ここに集められたようだ。
実際には大正3年7月15日に公園の造成完成とともに石碑も披露された。
帝国在郷軍人会 登川村分会が建立したもの。
除幕式には、招待者数百人、村民他3~4万人が集まり、登川村開村以来の盛況だったそうだ。(夕張市史)
いまは、ひっそりと丁未の奥地に場所を替え、往年の活気を伝え続けている。
土台の形が当事と変わっているので、移転のときに作り直したのだろう。
肝心の石碑本体はひび割れており、大きく欠けて崩れている部分があり、当事と形が変わっている。

『伊達政宗頌徳碑』 昭和4年9月8日 建立
これも、本町東山聖苑に存在していた石碑だ。
夕張になぜ伊達政宗??という疑問を感じていたが、どうやら、夕張の宮城県人会の望郷を目的として建立されたようだ。
こちらも土台は移転の時に新しく作り変えたものだ。

『馬頭観音』 明治39年9月1日 建立
丁未の下の方にひっそりとたたずむ。
70~80人の名前が彫られている。
ここに至る柵が横倒しになっており、とても悲しい姿だ。
草刈はされているようで、今でもどなたかが管理されているようだった。

『夕張循環道路開通記念碑』 昭和6年8月 建立
丁未のもっと町側、錦と富岡の中間あたりの道路脇にたたずむ。
どこが循環している道路かというと、夕張神社から山に上がり福住4区の上を横に通り抜け丁未まで真っ直ぐに伸びていた道路のことである。

昭和51年の航空写真には、まだ循環道路跡が確認できる。
その道路の5mmくらい上を赤線でなぞったがおわかりになるでしょうか。
現在は、雑草の林道荒地のようになっていて、車では到底通り抜けることはできない姿になっている。
この道路は、当事一直線だった丁未までの道のりを、山側に大きく円状に迂回したルートなので”循環”という意味なのであろう。
夕張市には、往年の生活を伝える石碑が100基弱ほど現存している。
このブログで、ときどきご紹介させていただく予定です。
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- 2011/09/29(木) 19:34:53|
- 丁未・錦・富岡・福住・住初
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