あの頃の夕張を求めて

澄みきった空気、山並みに囲まれた豊かな自然の中で、炭鉱で開かれた先代の営みの上に、貧しくものびのびと成長した、そんなあの頃の夕張を探す画像ブログです。

明治25年という年

明治23年、開坑に着手した夕張炭山には、まだ鉄道がありませんでした。
二股峠の道路が唯一であり、馬車により物資や食料の運搬がされていました。

この年の10月に、ようやく室蘭から空知太(現在の砂川北部)までの線路工事が始まりました。
この路線は小樽手宮から三笠幌内の路線と岩見沢で交差するものでした。
港が室蘭で計画されたのは、小樽港は混雑し、また海外への需要も増加していたため太平洋側に石炭運搬の玄関口が必要だったためでした。
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北炭初代社長 堀基

■夕張支線路線変更の大問題発生で堀基辞任
夕張炭山へは、この室蘭線から分岐して線路を敷くことが決まっていました。
しかし、計画では分岐点は馬追(現在の由仁)であり、栗山を通り二股から山を越えて夕張炭山に敷く計画で認可されていました。
明治25年2月、北炭はこの山越えの路線工事の難易度、経費、将来の開発計画などを考慮し、追分を分岐点にした大幅な計画変更を道庁に願い出ました。
これが、お上をないがしろにした勝手な行動と解釈され大問題になりました。
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開拓当時の道庁は、黒田長官を始め薩摩閥が全盛であり、後の永山長官も北炭社長の堀も、その他要職のほとんどが薩摩で独占されていて、北海道は薩摩閥の天下のようでした。
官営鉄道・炭鉱の北炭への払い下げも、その黒田が首相になり、このような薩摩閥の勢い談合のような筋書きで決められたものでした。
この、路線変更は薩摩閥の永山長官時代ならさほど大した問題ではなかったはずなのですが、タイミングが悪かったのでした。
黒田内閣が更迭し、北海道も渡辺新長官に変わり、薩摩閥の独善的な手法は目に余るものとして全国的に批判の的になっていた時分でした。
北海道の要職から薩摩閥を追放する動きの中で、その本丸と目されていた北炭社長の堀を追放する口実として、政府を冒涜する勝手な路線変更と批難しました。
北炭は、道庁から派遣された技師の指示にしたがったものだ。と反論しましたが、この問題は国会でも追及され、ついに3月24日、初代社長堀基はやむなく引責辞任しました。
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堀社長辞任により沸騰した世論も静まり、鉄道庁長官の井上勝が実情調査をした結果、路線変更は妥当な措置であると判断し、結局現在の追分分岐による夕張支線が認可されました。

一方今度は、民間会社の社長を株主の意向を聞くことなく、役人が勝手に罷免したのは不当だとして世論の注目を集めることとなりました。
防戦に回った道庁は、一定の条件のもと会社と株主の意向に沿う形で、次の社長が決定されました。
明治25年4月4日、高島嘉右衛門が北炭2代社長に就任しました。
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高島嘉右衛門

夕張支線開通間近のこの頃、時同じくして明治25年、一番坑にて夕張初の大規模ガス爆発が起きます。
明治23年に坑口二箇所、24年に更に二箇所を開坑、主力は千歳坑(一番坑)と天竜坑の位置でした。
鉄道開通前だったので、掘り出した石炭は山元に貯蔵している頃でした。
本町炭山以外は原始林に覆われていましたが、市街には料理店、酒屋、呉服店、劇場、雑貨屋などが1丁目に5、6軒、2丁目に7、8軒出来て、人口も急速に増えていました。
4丁目5丁目や旭町などは、まだ熊笹に覆われていました。
選炭場もまだなかったので、シホロカベツ川は水は清く鮭が登って来るほどだったようです。
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明治25年8月20日、一番坑内のガスに引火し(カンテラの火か?)突如大爆発が発生。
男女18人が死亡する惨事となりました。
当時の一番坑は水平展開の坑道で、シホロカベツ川沿いの炭層を沿層堀採炭をしていた、いわゆる小規模なタヌキ堀から、坑夫の槌組編成による残柱式採炭に切り替えられていった頃でした。
通風坑道というものがなく、坑道が延長するに従って換気を維持するのが困難になり、未熟なガス払いのようなものや、驚いたことにタバコの火をつけて燃やしたりしていました。
このような安全管理の意識の低さから坑夫の不安は増大、士気や出炭量が低下していた矢先でした。
せんの木物語の項目に出てきた爆発事故はこの事故のことで、丁未の若いアイヌ夫婦が犠牲になっています。
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こうした災害対策として、後に夕張炭山として始めての一番坑に通風坑道が作られ扇風機が取りつけられました。
この通風坑道は丁未の奥に最近まで残っていたそうですが、いまは消滅しているようです。
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夕張神社境内に残されている「鉱業従事者遭難哀悼碑」。
明治28年建立のこの碑は、夕張で最も古いものだそうです。
北炭の記録には、この年までは死傷者が出た事故の記録がないのですが、20人以下は省略と書かれているので、明治25年のこの事故や小規模な事故は無数に起きていたことによる建立だったと思われ、この碑が上記の事故を指しているのは明らかだと思います。

※参考資料 夕張市史、地底の葬列、わが夕張、風雪60年、北炭70年史、夕張の火は消えず
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  1. 2012/03/28(水) 02:15:00|
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コメント

はい今でも

ズリを拾ってきて、家で燃やしてみたら燃えました。笑

明治25年のガス爆発の資料がほとんどなく、北炭70年史では全く触れられていませんでした。
もう少し具体的に描写してみたいと思っていたのですが、資料がありましたらお教えいただければと思います。
  1. 2012/03/28(水) 10:24:06 |
  2. URL |
  3. tomato #-
  4. [ 編集 ]

選炭

当時の選炭は目視だったと思います。
古いズリ山は良質の石炭も捨てられていまして就学前だったと思いますが新夕張の古いズリ山の麓を大人達がツルハシとスコップで掘り返してモッコで運ぶ石炭拾いをしていたのを覚えています。
古いズリ山は良く燃えていましたよ。アチコチで油が出ていましたし硫黄が黄色く昇華し、温められた暖かい地下水が湧出し子供達の格好の遊び場でした。
焚き火に、この油をかけると硫黄臭いですが良く燃えました。
  1. 2012/03/28(水) 07:48:45 |
  2. URL |
  3. ロケットマン #j97DS3eU
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夕張は人生のふるさと。鹿ノ谷で過ごした楽しかったあの頃を決して忘れません。現在は札幌在住。
往年の夕張を追い求めています。
上の写真は探索専用パジェロミニ。
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カメラ:Nikon COOLPIX P500

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