夕張市の北端や南端、東端や西端はどこまでいけるのでしょうか。
みなさんは考えたことありませんか?
北端は大夕張の北にあるトンネルでしょうか。
東端は夕張岳までいけますね。
西端は日の出から富野に入る、札幌方面からはよく使う道道3号線ですね。
南端は、はたしてどこまでいけるのでしょうか?

地図で見た限りでは、滝の上あたりから南に向かって道路があります。
由仁町との境界に沿って道路が延びていて、○で囲んだあたりまで道はあります。
どんな道かはわかりませんが、行けるところまで行ってみましょう。

国道274号線から、その道の入り口に来ました。
滝の上と十三里の中間くらいです。

付近にはバス停があります。
オソウシ入口・・・何のことでしょう?
松浦武四郎が宿泊したと夕張日誌に書かれていた”於曾牛”ですね。
カタカナだと何のことなのか一瞬わからなかったです。
この道の先に於曾牛があるのでしょう、行ってみます。

道道夕張厚真線!!驚きました。
厚真町まで繋がっている近道なのでしょうか。
路面凹凸あり 通行注意 というのが近道ではないことを物語ってはいますが。
一応、道道1065号線だそうです。

少し進むと夕張川にあたり、この橋を渡りました。
於曾牛というのは、渡ったこちら側の場所の名称らしいです。
住宅が見えるのはここまでですが、この先に何かあるのでしょうか。
行ってみましょう。

橋を渡ってすぐに危険な兆候が現れます。
舗装道路はここまでのようです。

広大な自然が広がる静かな場所です。

道路脇に、どこかに行ける小さな橋がかかっていました。

その橋から道路の探索車を見ると、この圧倒的な大きさの自然です。
実際はもっと迫ってくる大きさです。

道沿いに不思議な祠があります。
何があるのか確認します・・・

祠に登る道がついていたようです。
どなたかが整備されているのでしょうか。

祠は新しいですね、右の石碑は歴史を感じさせますが・・・・

調べてみましたら、大照不動明王碑という明治44年建立で、滝の上の千鳥が滝の発電所取水口あたりにあったものだとわかりました。
平成になってから、こちらに移されたようです。
明治の頃、手塩で開拓農業に入っていた横沢シモという女性の枕元にある日、大照不動明王が現れ「夕張の滝の上に霊場にふさわしい滝がある」というお告げをしたそうです。
信心深かった横沢さんは一家で滝の上にやってきました。
当時、このあたりはうっそうとした密林地帯で、どこに滝があるのかもわからない状況だったので、小さなお堂を作って毎日お祈りをしていたところ、ある日数千羽のカラスが横沢シモさんを誘導するかのように飛んでいく方向に向かってみると、枕元で見た千鳥が滝を見つけたそうです。
この不動明王の物語を記念して、明治44年8月28日に建立されました。
その後、横沢シモさんは祈祷師として信者を集め、昭和17年まで滝の上でご存命だったそうです。
このような歴史を、ここで見つけることになるとは思いませんでした。

祠の裏に、小さな馬頭観音がありました。
いや、不思議すぎてこの世でないみたいです。
先へ進みましょう。

木が生えていない坂で、古い土留めの施工がされています。
どんな歴史があるのでしょう・・・

道沿いを流れる於曾牛川です。
川の流れは道の左右に現れてきて、いくつも橋が架かっています。



わりと最近作られた橋もあり、驚きました。

かなり奥までやってきました。
ナビではほとんど夕張の南端に迫っているのですが、境界はわかるでしょうか。

「これより林道」
今までは林道でなかったことに驚いてしまいました。

ああ、ついに行き止まりになってしまいました。
しかし、境界線はこのあたりにある川のようです。
歩いて進んでみます。

少し進むと川がありました。
これがピッタリ境界線の川です。

この橋のここが、夕張最南端の道路になります。
向こう側は由仁町です。
この先はあまりにも危険なので、夕張最南端の探索はおしまいにします。
- 2012/06/24(日) 23:39:38|
- 十三里・滝ノ上
-
| トラックバック:0
-
| コメント:2
その昔、社光と高松の間にプトマチャウンべという大きな沢があったそうです。
明治期に採炭が始まるとズリ捨て場として堆積し地形を変え、沢はほぼ埋め立てられていたのですが・・・

わたしが以前来たときは、ここは細い川が流れていた平坦な地面でした。
わかりますでしょうか、地面が大きくえぐられ沢が出現しているではありませんか。
今年の大雪の雪解け水の濁流で地面が崩壊して、昔の沢の面影が現れたようです。
この上流500mくらいのところには白糸の滝がありますが、崩れた地面の端を歩く気になれないので、今回は取りやめます。

接近してみます。
画像ではわかりずらいですが、深さは4メートルはあるでしょうか。
足元を見ているとクラクラしてくる高さです。

ここは平地だったところで、普通に歩いて細い川をまたいで向こうにいけました。
なんということでしょう。
昔のコンクリートの資材なども流されています。

手前のこちら側の土地は小鳩保育園があったところで、園舎があったすぐ後ろの地面が大崩壊している状況です。

このプトマチャウンべの沢は、夕張炭山開発当初、社光・高松から福住を結ぶ吊橋(天竜の吊橋)もあり人々が行き交う町の中心地点であったそうです。
飯場、浴場、商店、巡視詰め所が建ち、社光には資材倉庫が立ち並んでいたそうです。
白糸の滝とは別に、シホロカベツ川との合流点には「センキの滝」という滝もあったそうですが、昭和29年4月の大雨と雪解けでズリ山が崩壊し埋没してしまったそうです。
また、この滝の付近には大井坑の竪坑が大正6年から14年まであったそうです。
明治の開発当初、この沢に飯場を持っていた松尾国太郎は、この沢でアイヌの居住跡を発見していたそうです。
アイヌがこの地域に具体的に居住していたお話は「丁未-せんの木物語」でご紹介したとおりです。
この沢はアイヌにとって、千歳・長沼馬追方面から夕張岳から日高・十勝方面へと抜ける重要な交通拠点であったと考えられています。
昔のように、もうズリ捨てが行われることもないので、このまま沢は深く削られ、炭山開発前の姿に戻っていくのでしょうか。
自然の不思議な力だと思います。
- 2012/06/17(日) 21:13:57|
- 社光・高松・小松
-
| トラックバック:0
-
| コメント:6