
石炭博物館の方を向き、大きく手をあげる像。
往年の姿そのままに炭鉱隆盛だったあの頃の歴史を今も語り続ける『採炭救国坑夫の像』です。
進発の像ともいわれ、夕張市の文化財に指定されています。
3.63メートルのこの像はコンクリート製で、当時の彫塑界はじめての現地製作で造られました。

『採炭救国 坑夫の像』
採炭救国
製作者
軍需生産美術推進隊彫塑班
中村直人 古賀忠雄 圓鍔勝二 木下繁
昭和十九年六月二十五日
夕張鉱業所

太平洋戦争中、芸術家も戦意高揚のため各地を回り活動していました。
この像は、夕張に来ていた彫刻家4人の手により造られました。
製作者の一人の木下繁さんが、次のようにお話しされています。
「戦時中に軍需省の外郭団体で軍需美術推進隊という団体がございまして、画家、彫刻家を始め美術家が国家のために働くということで始まった仕事です。 我々4人がこの団体から派遣されて夕張にまいった次第です。 当時の万仲所長を始め事務所の方々大いに賛成され制作を始めた次第です。 無報酬です。
制作者は日展の古賀忠雄、圓鍔勝二、木下繁、院展からは中村直人氏です。

資材などの経費、たぶん北炭の方です。 像の中に五分金くらいの鉄棒数本いれ、だいたいの骨組みを北炭の溶接工と一緒にやりました。 金網などを使用致し毎日少しずつセメントつけていきました。 それに夕張の菊地さんという左官屋さんにも参加してセメントをねってもらいました。
モデルにつきましては4人が選炭場などに行き一番方の人々の出発する様子など見てこちらでポーズを決めたように思っております。 建立場所は万仲所長さん達、それとわれわれ4人で相談したと思います。
日数はなるたけ早く製作してきりあげる主旨でした。 早朝より夕刻まで頑張りました。 日数は記憶は明確でないが10日位ではないかと思います。 (略)
古賀先生と圓鍔先生とわたしも日本芸術院会員になりました。 中村先生は終戦後早々に渡仏され作家活動をされていました。 もっぱら絵を専門に。 古賀先生、中村先生は故人になりました。 (略)」

この像は、焼失した旧夕張鉱業所前にありましたが、新二鉱繰込所前に移設され、更に昭和60年12月に天竜坑の露頭炭前に移され現在に至ります。

新二鉱繰込所前にあったころの像。
- 2012/06/13(水) 20:18:05|
- 社光・高松・小松
-
| トラックバック:1
-
| コメント:4
昭和31年10月1日 開校
昭和50年3月31日 閉校
戦後、急速な人口増加により、福住一区の夕張第二小学校(後の旭小学校 廃校)は、児童数三千人を超える超マンモス校となり校舎の増築の繰り返しが階段状の異様な校舎となり、なおかつ二部授業を行い、体育は廊下で行ったり、過密度甚だしい人数でした。
福住五区の連絡所付近の炭住を改造し、仮教室として児童の一部を分散させたりしていました。

こうした中、昭和31年10月1日、福住三区に学級数18の福住小学校がついに完成しました。
机や椅子は第二小学校から、先生や父母、児童が総出で運び込んだそうです。
それでも、校舎が小さめだったので、開校当時1学年1クラス70人余り、教室は前から後ろまでいっぱいで歩くことも椅子を動かすことも出来なかったそうです。

新校舎は、北陵中学校のすぐ奥側に作られました。
当初、小学校に体育館がなかったので卒業式は中学校の体育館で行いました。
グランドは中学校と共同で使用していました。

写真中央に福住小学校、手前が北陵中学校、右側の縦に走る2本線の左が福住人車、右がズリ捨て線です。
福住小学校の校区は、福住三区・五区・六区(この頃すでに七区という概念は一般的に消滅していたので除外)と富岡で、ここだけで約2000世帯、人口7000人の校区でした。
標高600メートルの山の上から登校してくる児童と下から登ってくる児童と、北陵中の生徒も集まり、福住は大変な活気のある地区だったことでしょう。
町全部がものすごい山の斜面であり、福住の子供は坂道を歩くのは得意だが平地を歩くのは苦手だ、と語られたくらいでした。

冬の福住の豪雪は大変なもので、玄関が開かなくなるほど住宅がすっぽり埋まったりして臨時休校や授業打ち切り集団下校も数多くありました。
下の線路と学校では気温差が3、4度あるとか、胸まで積もった雪を漕いで登校したとか、住宅の屋根の上を歩いて登下校したとか、そういう信じられないエピソードが普通に起こっていたそうです。
卒業式の前日に大雪になり、体育館の窓がすべて雪で埋まり、真っ暗な中で式をあげたこともあったそうです。

福住小学校1年生の遠足

6年生の音楽の授業

閉校間近の教室

グランドで運動会。
右奥の校舎が福住小学校、左手の校舎は北陵中学校。

昭和35年以降のエネルギー転換政策により、石炭産業の急速な退潮が始まりました。
この年、夕張二鉱でも死者42人を出すガス爆発事故が起こりました。
福住小学校の児童数は、開校昭和31年688名から、昭和35年878名と増えましたが、これ以降減少の一途で昭和48年の夕張一鉱閉山が決定打となり、昭和49年には人車が廃止、昭和50年閉校時の児童数は69名になっていました。
本町以北の急速な衰退とともに住人も集約され、丁未小学校とともに第二小学校の後継の旭小学校に統合、廃校となり、19年の短い歴史に幕を下ろしました。

現在の跡地。
広々とした空間が当時の姿を物語っていますが、住宅建物はひとつもなく、とても寂しい風景ですね。

その後、跡地は花とシネマのドリームランドの広大な花壇がありましたが、現在は幾何模様の道路とこのオブジェだけが残りましたが、福住小学校には記念碑が残っていないのでこれを活用できないでしょうか。
ブロンズの碑で、これを注文して作ったら大変な値段だと思います。

山側に残されているこの池の跡は、福住小学校の時代に昭和43年の教職員・父母・児童の協力で全道各地から集めた石を陳列して作られた『岩石園』のなごりだと思われます。
当時とても価値のある石もあったようで、新聞にも報道されたそうです。

ちなみに、上の職員集合写真の前列右端の志和先生は、昭和50年に福住小学校閉校ののち鹿ノ谷小学校に転任され、4年生だったわたしの担任になりました。
偶然見つけた写真で懐かしく思い出されました。
福住小の閉校記念誌では、このように先生紹介されていましたが、はたしてどうだったでしょうか。
とても若々しくて思い出の先生です、お世話になりました。
- 2012/06/10(日) 19:48:14|
- 丁未・錦・富岡・福住・住初
-
| トラックバック:0
-
| コメント:9
明治23年、夕張炭山開基以来の人口推移を確認しておきます。
資料は夕張市役所ホームページに公表されているものです。


最盛期 昭和35年 11万7千人と、わたしは話をするようにしています。

■直近の夕張市人口

実は、毎月40人~50人づつ減少しており、何もしなければ年明けに1万人の大台を割るかも知れません。
- 2012/06/06(水) 12:47:28|
- 夕張地理
-
| トラックバック:0
-
| コメント:5