夕張市内に残った最後の屋外プールです。
現存しているものは、清水沢のゆうばり小学校の屋内プール(ビニール屋根)と、ここの2箇所だけです。

登川小学校があったすぐ下、登下校の道沿いに往年の姿のまま残されています。
水を張れば今でもすぐに使用出来そうな立派なプールです。

管理小屋がそのまま残されています。

シャワー設備です。
雑草をどけたらすぐに使用できそうですね。

注意書きの看板です。
どうもこの字体の様子から、かなりの年代物ではないかと推測されます。

トイレが懐かしい・・・

登川小学校の通学路です。
左手の土手の上に学校がありました。

もったいないですね。
近隣に住宅があるので水道は止まっていないと思います。
掃除すれば、すぐにも使えそうな当時のままのプールです。
夏のお盆の時期に町内でプールイベントのような形で再活用できないでしょうかね。
帰省したお孫さんたちや、わたしのようなふるさとマニアも涙流しながら入りに来るでしょうね。
※昭和30年代の登川二区

ちょうど、登川中学校の裏側の山から撮影された画像です。(左下の建物が中学校)
青い線が現在の石勝線が作られている場所、緑の線が現在の国道274号線です。
町を分断するように作られた線路と国道は、町並みを別世界に変えてしまったようです。
当時のグランドやプールは、その下敷きとなり、現在あるものは小学校寄りに移されたものです。

昭和32、3年頃の往年の登川プールの画像です。
夕張市の中学生の大会が行われたときのものだそうです。
2枚とも、のぼり川さんから提供された貴重な画像でした。
当時の賑わいがすばらしい登川プールに熱いものが込み上げてきます。
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- 2012/05/30(水) 13:17:09|
- 楓・登川
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シホロカベツ川沿い、社光の道路下に人工的な造形が残っていました。
さて、何でしょう。

これはコークス炉の跡です。

末広の跡地に比べて崩壊が進んでいますが、はっきりわかりますね。

看板もありました。
産業遺産として保存していこうとする意欲は伝わります。
- 2012/05/25(金) 08:28:56|
- 社光・高松・小松
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錦沢遊園地 写真「大崎盛 写真集」より
春の訪れとともに見事な桜花が夕張を代表する名所であり憩いの場でした。
最盛期には、飛行塔、木馬16頭、豆電車、豆自動車、つり堀、ボート12槽、小動物園、桜約300本、四国新八十八ヶ所、錦沢教会三十三ヶ所、錦沢寺などがあり、夕張鉄道錦沢駅は一日当たり乗降客数6千人もあったほど盛況の地でした。
昭和8年5月に開園し、昭和45年に閉園しました。

大蛇の沢をせき止めて池が作られ、ボートを乗ることができました。
夕張鉄道の錦沢駅があり、経営も同社でした。

急勾配の路線をスイッチバック方式で2回折返して登るのが特徴でした。

現在の航空写真に当時の写真を重ねて地形を一致させてみますと、このようになります。

赤い線が夕張鉄道の路線で、今でもスイッチパック方式の形が遊歩道としてそのまま残っています。
新しく開通した道道3号線から遊園地跡に向かうには徒歩で30分程度でつきます。
グーグル地図で「錦沢公園」と表示されている位置は間違いです。

道道からの入り口には交通安全のお地蔵様があります。
旧道に建立されていたものが移設されたものです。
さあ、道路を向かい側に渡って錦沢に行ってみましょう。

こちらが入り口になります。
きれいに舗装されていて大丈夫そうですが。

少し進むと、道が怪しくなってきました。

サイクリングロードの看板です。
以前は、夕鉄の線路跡を富野から社光まで自転車専用道路として活用されていました。

いやこれは、笹薮が覆いかぶさり、道がわかりずらくなってきました。

あ、ここは最初の折り返し地点です。
当時の線路跡に忠実に舗装されているのが嬉しいですね。

折り返し地点から少しすると、何か見えてきました。
ついたのでしょうか。

到着しました。
奥に石碑が見えます。

錦沢遊園 昭和八年五月 金谷山人
このように刻まれています。
こんな山奥で歴史を語り続ける石碑を、未来の人たちは気がついてくれるでしょうか。

大看板が残っていました。

サイクリングロードの休憩場所跡として、現在も面影を残している錦沢遊園地でした。

まだ桜が咲いていました。
当時も同じ花を咲かせていたのでしょうか。

「次は、錦沢、錦沢です。」
切符から当時の声や賑わいが聞こえてきそうです。
- 2012/05/21(月) 11:34:28|
- 富野
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