1975年 映画『同胞』のエンディングで、倍賞千恵子さんが歩いた社光の坂を探しにいきました。

この坂です。
炭鉱住宅が立つのどかな風景の中で、夕張の青年と別れる印象的なシーンでした。
東山中学校に登る坂から、なお左上に分岐した小さな坂です。

当時の住宅地図では、倍賞さんは点線右から左に向かって歩いたのでした。
赤〇のところが上の映画の場面です。

左側に曲がって坂を登ると東山中学校です。
上の地図と照合しますと、このカーブは後に作られたもので、以前は真っ直ぐ手前に向かって下りてきていたのがわかりました。
写真中央の、道と道の間の小さな小道が旧道ということになりますね。

当時の航空写真では、右上から左下にズリ山を囲むように曲線の道があるのですが・・・
何度も往復して調べたのですが、道が直線で曲がったところがなく、どう調べても左斜めに上がる坂もないのです。

現在の航空写真と照合してみると、なんと曲がった道を直線に直していました。
高台になった地面ごと除去されていて、もしかして倍賞さんが歩いた坂は・・・

ちょうど、この角度が昔は高台になっていて、右に入っていく道が旧道だったのでした。
こうしてみると、左側の斜面が人工的な造形できれいに整っています。
地面ごと削り地形を変えて道を直線にしたため、驚いたことに倍賞さんが歩いた坂は地面ごと消滅していました。
どうりで、今までわからなかったはずです。
この道を、地面を取り除き直線にすることに意味があったのかどうか、今となっては全くわかりません。
後日、旧道を歩いてみましたら、その坂らしき傾斜が残っていました。
工事の手が入って見た目は違いますが、新道と旧道の間にちょうど登り坂があり、位置からするとこれが倍賞さんが歩いた坂だと思います。

- 2012/05/18(金) 01:01:57|
- 社光・高松・小松
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今年初めて鹿ノ谷小学校に帰ってみました。

あれ・・・

子供たちが登校しています!

あれ、校舎が直っています!
早くしないと遅刻するよ!

子供たちがたくさん遊んでいます。
すばらしい!

グランドに飛び出せ!
あ、タイヤが残っているぞ!
おれも入れてくれ!

運動会の練習をしていました。
今年は子供が多いですね。
みんながんばれ!

すべり台が残っていました!
みんなよかったですね・・・

・・・・・
すべてが遠い昔の出来事になり、みんななくなりました。
こんなことをしているわたしは危ないでしょうか。
逆に寂しい気持ちになってしまいました。
- 2012/05/14(月) 11:09:53|
- 鹿ノ谷
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義経号(よしつねごう)
明治13年にアメリカのポーター社から輸入し、弁慶号とともに北海道で最初に走った蒸気機関車。
大正12年に民間工場の入換え用に払い下げとなり改造されて働いていたが、国鉄開業80周年記念事業の一つとして、昭和27年に旧国鉄にて復元されました。
現在でも大阪で展示保存されています。

当時の夕張川の橋
工事はとても困難を極め、沿線予定地は沼沢地が多く草木繁茂して人道とてなく、材料の運搬は予想外に難攻しました。
河川の上流下流も判別し難く洪水量を測定できなかったため、最初は木で橋を作り水位を見極め様子を見て鉄橋に架け替えられたそうです。
路線変更で北炭社長更迭という問題にまで発展した夕張炭山支線でしたが、明治25年11月1日に追分-紅葉山-夕張の42.5キロの開通に至りました。
開通式は義経号がやってきて盛大に行われたと伝えられています。

開通翌年 明治26年の夕張駅構内の様子

現在の同じ場所
記念すべき夕張線の開通で走行した義経号が、30年前に小樽に来ていた時の動画がありました。
リンク→
SL義経号が小樽を走る 夕張炭山は、明治25年3月の営業出炭開始、11月の鉄道開通と、にわかに活気をおびていました。
こうした中、暮れも押し迫った12月30日、夕張炭山を揺り動かす大暴動が起こります。

奈良飯場の工夫数名が炭山採炭所に赴いて、賃金の値上げと米と味噌の貸与を願い出ました。
年が明けて1月3日には、採炭所の石橋所長の自宅に押しかけ同様の願いを申し入れました。
これに対し採炭所は、米と味噌は承諾しましたが、賃金は結論を先延ばしにしました。
工夫たちは引き下がったものの、この要求に加わらなかった大塚・石神飯場に押しかけ糾弾しました。
ご愛嬌で出された酒をたらふく飲んだ工夫たちは勢いに乗って街に繰り出しました。
そこで、博徒の経営する料理屋で客と工夫の一人が衝突し怪我をしました。
それに怒った工夫たちはたちまち料理屋になだれ込み乱暴を働き、勢い街中をまきこむ大騒動に発展してしまいました。

『放火の方は未遂に終わったが、倉庫を破って米味噌を担ぎ出す、市街地を荒らす、略奪した塩鮭をかじりながら四斗樽の鏡を抜いて酒をあふるなど手も足もつけられぬ狼藉をやった。商家は三昼夜も雨戸を閉めて外へ出なかった。』(風雪六十年)
この騒動に加わった工夫は約300人、首謀者は飯場の親方の奈良・石川だったといわれていますが、新興夕張炭山にとっては予想外の空前の出来事であり、地の底で命を賭けて働く工夫の底知れぬエネルギーをまざまざと見せ付けた事件でした。
まもなく、警官や役人が乗り込んできて暴動は鎮圧されました。
この事件の後、北炭は飯場制を廃止し、工夫の全員直接雇用にするという制度への切り替えを発表し歓迎されましたが、飯場主のピンはね分がなくなったことを考慮して賃金10%の減額をおこないました。
賃上げ願いを保留していた所長の回答は、結果的に逆に賃下げするという驚くべきものでした。
参考資料: 夕張の火は消えず 炭鉱に生きる 北炭七十年史 写真集明治大正昭和夕張 歴史写真集みかさ
- 2012/05/08(火) 01:00:16|
- 夕張歴史
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