真谷地の共同墓地の最深部に、中国人労働者の犠牲者のお墓があると聞きました。
まだ雪が深かったのですが探してきました。

一番奥の墓地を見下ろす丘の上ありました。
『中国人労務者の墓』
昭和二十三年五月十日建立
由来
太平洋戦争の末期、労働力不足を補うため、朝鮮人や中国人が連行されてきて、炭鉱や土木工事の重労働に従事、多くの犠牲者を出しました。
夕張には1391名の外国人が入山し、369名が死亡したと言われています。
真谷地炭鉱 417名中60名死亡
角田鉱 294名中76名死亡
大夕張炭鉱 292名中85名死亡
大夕張地崎組 383名中148名死亡
死亡した者の遺骨は引揚げ時に同僚に抱かれて帰国しましたが、残骨を埋めていた共同墓地内に平和鉱業所が墓を建立しました。
真谷地炭鉱の労使で毎年お盆に慰霊祭を行ってきたそうです。

自分の故郷とは何の関係もない国に連行されて亡くなった多くの方々は、日本や夕張の事をどう思っているのでしょう。
日本に対する視線が、他の東南アジア諸国と違うところはこれだと思います。
過剰な日本批判や侵略は許すことは出来ませんが、反面このような歴史も背負っていかなければならないのだと思いました。
- 2012/04/27(金) 01:24:00|
- 真谷地
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国道274号線、夕張の南東、登川の向こう側の穂別町(現むかわ町)の森の中に大和という炭鉱町があったことをご存知でしょうか。
現在は、うっそうとした森林地帯であり、熊の出没もみられる人気のない場所です。

地名は穂別稲里道有林番外地といいます。

大和地区は稲里の北部に位置していて、夕張登川にも穂別中心地にも、どちらにも遠い全くの山の中でした。
ここに、北炭平和鉱業所より租鉱権を受けた大和鉱業株式会社の稲里炭鉱(通称:大和炭鉱)が開発されたのが昭和32年でした。

大和炭鉱
昭和43年1月25日に閉山するまで約10年間の採炭期間でした。
閉山時、鉱夫は166人、地区全体では約300人くらいの住人が生活されていたのでしょうか。
大和炭鉱の開発に始まり、閉山でほぼ無人になってしまった地区でした。

現在の大和炭鉱跡地への道。
いまは、かつて開発が行われた地域とは思えない様子ですが、ところどころにコンクリートの塊があり、消えた炭鉱町の面影を残しています。

開発当初は、大和炭鉱の関係者は登川に居を構え大和まで通勤していたそうです。
従業員の子弟は登川の学校に入り、大和に住んでいた約30余名も登川の小中学校に炭車に便乗して通いました。
約10キロ南に穂別町の稲里小中学校がありましたが、その道は悪路と泥濘で、とても子供が歩けるような状況ではなかったのでした。
昭和33年の秋頃から、大和に炭鉱事務所や社宅が建設され従業員の家族の招致も行われ人口が増えましたが、子供たちは引き続き登川の学校に通っていて、正月を迎える頃には約90名の児童が大和から登川小中の学校に通うようになっていました。

大和地区全景

大和地区に入る旧道
穂別町も大和地区に学校設置と教員の配置の陳情を受け、適当な施設を探していました。
そんな中、夕張市の教育委員会から穂別町に対し、児童の委託についての話し合いがあり、児童1人あたり2500円と登川小学校の増築費用150万円が請求され、これに応じない場合は児童の引き取り方について厳重な申し入れがされるという事態が起きました。
これにより、分校設立が決定され、穂別小学校の大沢勘太郎教諭が設立事務を任され3月23日に着任しました。

初代校長 大沢勘太郎先生 (閉校まで勤めました)

※分校開校当時に暫定校舎があった場所。現キャンプ場入り口付近。

※分校が暫定開校した豊進部落会館(2階)と倉庫(1階)

※同じく暫定校舎として買い上げた、苫小牧林務署の造林小屋。
昭和34年、豊進開拓団の会館と倉庫等を利用して4月1日開校を目指しましたが、融雪期の悪路で稲里からの資材の搬入が間に合わず、4月10日にようやく開校式をあげました。
大和からこの豊進の暫定校舎までは南に約3キロの道のりがあり、豊進-稲里の道よりなお悪い道で、徒歩でしか通行できない状態でした。
教室で使う机やイスは、登川から大和まで運搬されたものを、高学年の児童や父兄が背負って暫定校舎に運びこんだそうです。
そして同年9月20日、大和鉱業所エリアについに仮校舎が完成。
昭和35年4月に稲里分校から独立し、大和小中学校となりました。
昭和38年に校舎新築完成しました。

大和小中学校
最盛期には小学校6学級、中学校3学級、教員13名、児童200名を超える規模となっていましたが、大和炭鉱の閉山により昭和43年3月31日に閉校となり9年という短い歴史の幕を閉じました。

上の写真とほぼ同じ角度の現在の校庭
山の稜線が一致しています。

すぐ付近には大和の名を冠した橋があります。

大和小中学校があった二段になった高台。

雪解け水で増水した川を渡らなければなりません。
壊れた橋げたが、昔は橋がかかっていたのを物語っています。

川を渡ってすぐに小さな石碑があります。
町への上り口の木のそばです。
この坂道の奥には住宅が並んでいて、スーパーや神社もあったそうです。

石碑の裏面。
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大和小中学校は1学級25名前後で編制され、先生たちは新進気鋭の粒ぞろいで過保護なくらい個々人の教育に精魂打ち込み、学力試験や高校入試では立派な成績をあげ、開校以来1名の非行児も出さなかったそうです。
大和炭鉱の閉山により閉校を余儀なくされた、往年の大和小中学校の隆盛の記憶でした。

大和小の本校であった稲里小学校も既に閉校していました。
子供の名前が書いてあるので、最後は児童4人だったということでしょうか。
大和の子供たちが通った夕張の登川小学校も、昭和61年に閉校しています。
何もかも、遠い昔のおとぎ話のようになってしまったようです。
- 2012/04/22(日) 00:12:23|
- 楓・登川
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道道を清水沢から紅葉山方面に走行していくと、沼ノ沢の1部にて何やら碑が見れました。

交通安全のパトライトもあり、注意喚起しているものだとわかります。
しかし、小さなお地蔵様もあり、ただの交通安全の看板ではないようです。

碑は木製で、文字はかなり見えなくなってきています。
現在でも花が手向けられ、どなたかに縁のある碑で今でも大切にされているのがわかりました。

『交通安全祈願塔』と『地蔵尊』
由来
この直線道路が昭和40年4月に完通してから、交通量が多くなり見通しがよいことからスピードがアップしたのか、昭和46年から50年までに沼ノ沢地区の住人がこの付近で7件の交通事故にあい3名が死亡しているそうです。
この塔は昭和50年10月に沼ノ沢町内会が、犠牲者の霊をなぐさめ、町内の事故絶滅を願って建立したものでした。
地蔵尊は昭和49年12月にこの付近で事故死した2部の松田さんの遺族が建立したものだそうです。
そのせいか、祈願塔の建立以降この付近での事故は全くなくなっているらしいです。
今でも毎年町内会で祈願祭を実施しているのだそうです。
木製の木は桂の木、地蔵尊は御影石。
由来がわかると、なお一層事故には注意しなければならない場所とわかりました。
確かに、ここはスピード出てしまうところかも知れませんから。
- 2012/04/20(金) 00:40:23|
- 沼ノ沢
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