
昨年12月16日14時に国道452号線が付け替えになり、南部から鹿島に入るルートが変わり、往年の道路を通行できなくなりました。
その前に見た街の残像は、ほんのわずかでした。
この支柱看板は、なんと書かれていたのでしょうか。
右側 「人の・・・・みんなの社会の・」
左側 「・・・・町・・の力で非行追放」
昔の住宅地図で場所を見ると、市役所南支所鹿島連絡所の前あたりだと思いますが、いかがでしょうか。

交通安全都市 夕張市の看板
これも旧国道沿いに残っています。
同じ看板が清水沢の消防署の前あたりにも残っています。

ユーチューブの大夕張の動画と一致する場面です。
驚くべき変わりようです。

千年町のキリ助
一時、首が落ちていましたが再建されています。
鹿島で最も温もりや思いが伝わる構築物になりました。
工事で廃棄される前に新国道沿いに移動させてあげたいですね。

同じく20年前の動画にキリ助が写っています。
左端です。

戦没者慰霊碑です。
千年町のお寺が集まっていた場所にまだ残っています。
無事に移転が出来るのか心配しています。
工事のない日曜などは、事前の許可制で旧道に入ることが出来るなど何か懐柔策があってもよろしいかと思いますが、いかがでしょうか。
かつて2万人の人々が生活していた地域であり、全くの立ち入り禁止ではなく、企画としてギリギリまで人を受け入れ、町の活性化に繋げていくことが出来たらいいですね。
- 2012/03/14(水) 10:06:35|
- 鹿島
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夕張市若菜2-19に本社を構える夕鉄バス。
正式名称は、今でも夕張鉄道株式会社と言います。
誰もが知っている夕張鉄道を経営していた会社がここです。
社章はベンツのマークを2つ重ねたような形が印象的で、夕張のYと鉄道のTを組合わせて車輪を表し和協の精神を表現したものだそうです。 ※大正15年制定
夕張のバスの歴史は、夕鉄バスより早くに夕張バスという会社があり、後に夕鉄と統合しています。
市内における路線バスのはじまりから見ていきましょう。

昭和5年5月に、室蘭在住の徳中祐満が社長になり夕張乗合自動車株式会社が設立されました。
6月1日から中型バス2台で、本町栄橋 - 鹿ノ谷間を運行したのがはじまりでした。
12月には夕張駅まで路線が延長、その後まもなく若菜 - 沼ノ沢 - 真谷地と、拡張しました。
昭和9年、札幌在住の安井一夫が資金力で夕張乗合自動車㈱を支配し、夕張バス株式会社と改称しました。
この後、小樽バス株式会社に買収されて経営は続いていましたが、戦争が激しくなるにつれて、交通事業の統制もきびしくなり、昭和19年4月に休業廃止となりました。

戦後になり、市内の道路が目立ってよくなり、昭和23年頃より自動車が急激に増えてきました。
夕張在住の、前川宇之吉と横川惣太郎などによりバス運行が企画され、昭和25年3月30日に夕張乗合自動車株式会社が設立されました。 ※戦前の同名の会社とは成り立ちから関連性はないものと思われます。
昭和25年4月1日からバス3台で、夕張鉱業所前 - 若菜間の運行を開始。
その後、小松 - 丁未 - 清水沢 - 南部 - 真谷地 - 沼ノ沢 - 紅葉山 - 登川と路線を拡張していきました。

珍しい当時の夕張バスの路線切符

昭和27年8月1日に、夕張鉄道が夕張 - 栗山間をバス3台で運行を始めました。
その後、上江別 - 札幌大通り間も運行されます。
昭和38年10月、夕張鉄道はついに、夕張バス株式会社(夕張乗合自動車)を併合しました。
夕鉄バスは、路線バスのほか、観光貸切なども営業し、鉄道事業とともに夕張市民の足として定着しました。
しかし昭和49年4月1日、夕鉄は鉄道事業を北炭に譲渡しバス事業のみとなりました。
これらが、夕鉄バスが現在に至る経緯となります。

本社ターミナルからは、市内路線のほか札幌方面のバスが発着しています。

■登川から清陵町に向かう夕鉄バス

■夕張市内の路線図
この図面を元に全てのバス停を取材してありますので、後日ご紹介したいと思います。
- 2012/03/08(木) 16:35:28|
- 常盤・若菜・日吉
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「登川村のはじまり」の続きになります。
このあたりから炭鉱の酷な状態が現れてきますが、目を背けず確認していきたいと思います。

夕張より一足先に開坑していた三笠の幌内炭鉱では、官営の業績不振の影響で、明治20年から採炭事業を空知監獄に移し囚人労働によって経費を抑え、一時は1500人もの囚人を坑内で作業させていました。

■幌内炭鉱 空知集治監外役所(囚人施設)
賃金は、一般労働者が1日40銭だったのに対し、囚人は17~8銭で使え、住居はタコ部屋同然の雑魚寝で劣悪な保安衛生にも文句を言う者もいなく、経営者には好都合な労働力でした。
なおかつ、危険な未開の地に自発的にやってくる者はいなかったので、採炭に従事する者は囚人、罪人、破産者、生活に困窮して売られた出稼人がほとんどでした。
そのため、一度炭山に足を踏み入れると出ることは極めて難しく、経営者の鋭い監視の下で行う奴隷労働と虐待のため疲労困憊し、衛生環境の悪さから伝染病などもあって死亡者が続出し、働けなくなった者は生きたまま土葬された者もいました。

夕張では幌内に遅れること約10年、明治23年に採炭所が開設され開坑着手されました。
夕張炭山の採掘権は最初から北炭が持っており、官営ではありませんでしたが、上記のように炭鉱は”炭山地獄”の悪名が世に広がっていた時代だったので、夕張に大勢の坑夫を集めることは困難でした。
そのため、便宜上親分肌の人物を求め、その親方の出身地や縁故関係で坑夫を集めて、その生活、賃金、労働の一切の責任を持たせる飯場制度(組夫請負制度または納屋制度)を採用しました。
北炭の直接雇用ではなく、下請け会社のようなものだと思われます。
夕張採炭所の完成に先駆けて、明治23年4月には簡易的な診療所も設置され河北柳三郎医師が嘱託で赴任、北炭関係者やそれ以外の住民の診療にも応じていました。

■この頃の労働者
しかし、この飯場に召集されてくる者たちも幌内炭鉱とほとんど変わらない者たちでした。
明治23年当時、登川村はなんら秩序の見るべき者もなく、身体豪傑なだけで働かない者でも寄せ集め、中には免囚や逃亡者、破産者や賭博者などいかがわしき無類の者が多く、殺伐な気が満ち溢れ別世界のような有様でした。
治安維持に対する何らの機関もなく、博徒が徒党を組んで覇権を争い闘争が後を絶たず、しばしば労働者が採炭をボイコットして暴徒化することもあり、さらに飲酒、痴情、賭博に起因する傷害沙汰は日常茶飯事であり、あるいは殺人、死体遺棄など戦慄すべき事件は随所に行われていました。
当時の登川村は市来知警察署(三笠)の管轄でしたが、官憲はおらず、あまりの惨状に北炭が請願して、明治24年10月に巡査派出所がようやく設置され、池田真清巡査が着任しました。
これが夕張警察の始まりでした。
(消防組織は明治30年までありませんでした)

■一番坑貯炭場 ※石炭の歴史村がある場所

■一番坑(後の千歳坑) ※夕張最初の坑口。石炭の歴史村北側の駐車場がある場所に現存しています。
飯場制度は、飯場の親方が鉱山から現場を預けられ、会社からもらう手当てや歩合は一括して親方が受け取り、親方の裁量で坑夫に支払われました。
会社は親方さえ抑えていればよい極めて効率的な制度でしたが、多くの飯場では中間搾取が甚だしく、労働者は酷使され、病気でも会社に関係ない場合は医療も満足に受けられませんでした。
労働時間は、1日2交代の12時間労働、休日は月1日でしたが、先山級は実働4、5時間、月に半分程度の労働でした。
一般坑夫の賃金は25銭くらいでした。
同年、新夕張炭鉱(末広)の炭層では、坂市太郎がみずから試掘権を獲得していました。

■後の實相寺
宗教は、上記のような人心荒廃に対して人々の精神を安定させる行が始まりました。
明治23年5月には後の實相寺の僧侶が、労働者の住まいを借りて説法を開始。
同年10月11日には、札幌大谷派本願寺が開宣、現在の希望の杜診療所のところに笹小屋を建てて説法を開始しました。
同年12月には大法寺が居を構えました。
明治24年頃、夕張神社の前身の拝殿が社光に建立されました。 ※住初・夕張神社の項目を参照
商業は、明治23年10月に住初社宅付近に日用雑貨を扱う笹小屋が3、4軒建てられたのが市街地の始まりでした。
教育は、明治23年12月に北炭社員の稲沢保吉の夫人が、採炭所の物置の一部を借りて社員と坑夫の子弟12、3名を集めて習字、読書、算数の初歩を教えたのが教育の始まりでした。
交通は、明治22年に角田村に泉麟太郎率いる大量移住があり、この地の草分けになり、岩見沢-角田間に刈り分け道路が作られました。
翌23年には、空知監獄の囚人を使ってこの道路を改修延長して夕張炭山まで完成させました。(二股峠の道路)
しかし、道路工事といっても当時は、単に山を崩して地ならしをする程度で、橋はなく、河川が増水すると埋まって寸断するような有様でした。
明治24年には、登川村でも鉄道工事が始まっていました。

■二股峠
明治23年から24年に掛けての、人口300人足らずの夕張炭山勃興の出来事をまとめました。
次回は、明治25年の鉄道開通・一番坑爆発事故を中心に調べていきたいと思います。
※参考資料 夕張市史、新夕張と共に、写真集明治大正昭和夕張、歴史写真集みかさ
- 2012/03/05(月) 00:53:54|
- 夕張歴史
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