ここは、ご存知の方は多いと思います。
市内の小学校の教本表紙にも描かれていたりした、有名な建物です。

『北炭北海道支店石炭分析所(室) 試料調整室跡』
鹿ノ谷山手町にいまも残る、炭鉱遺産とも言うべき往年の建物があります。
ここは、大正8年に作られ北炭の北海道支店に隣接し、石炭や坑内ガスを分析し、発熱量、成分、粒度、粘結度をはじめ、科学的調査を元に品質改善や販売促進をする研究施設として活躍しました。
木造の試験室もありましたが、今は残ってはいません。

当時の分析室の様子

現在は、お向かいの御宅の物置として使われているようで、幸運にもちょうど除雪中だったので中を見せていただきました。

内装はすべてなくなり、コンクリートが露出していました。
当時の面影はまったくわかりません。

この天井が、よく崩落しないで残っているものだと関心いたします。

滝ノ上や楓の発電所と同じ煉瓦造りで、大正時代の西洋風モダンな建築様式が一際目を引く、鹿ノ谷の往年の産業遺産でした。
- 2012/02/18(土) 16:13:35|
- 鹿ノ谷
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『同胞 はらから』 1975年11月1日公開 松竹
監督 山田洋次
脚本 山田洋次 朝間義隆
原作 山田洋次
キャスト
倍賞千恵子 寺尾聰 下絛アトム 市毛良枝 大滝秀治 渥美清
統一劇場 ※実在した「統一劇場」劇団員
岩手県岩手郡松尾村を舞台にした、農村部の青年たちと都会の青年劇団「統一劇場」との交流とふれあい、演劇の公演をめぐる人間模様を描いた、山田洋次監督の感動物語。
統一劇場とは当時実在した劇団で、実際に全国を回り公演活動を行っていました。
劇名は「ふるさと」といい、ここで歌われた歌は倍賞千恵子にて実際に発売された名曲「ふるさと」です。
学生運動が敗北した暗闇の中で、若者たち誰もが苦悩し未来を模索していた青春のひとコマを描いた傑作です。
物語が完結して統一劇場の倍賞が次なる公演場所を求めて訪れた場所として、夕張が一番最後に3分程度現れます。
これは、山田洋次監督の「次は夕張でやるぞ」というメッセージだったのではないでしょうか。
それは1977年の「幸福の黄色いハンカチ」に見事に引き継がれて実現していることと思いました。
ここでは、夕張の風景に係わる場面のみご紹介したいと思います。

この場面は、夕張駅から社光方向を見ていると思います。
ズリ山が見えますね。

上の場面をズームアップした場面です。
東山中学校に登る道を更に分岐して上に上がる道のようですが、そんな道は今は全くわからないです。

夕張の青年部の代表の人と倍賞が話し合いをして、帰路につく場面です。
ここがそのズリ山付近の謎の炭鉱住宅街です。

その細い道を下りて東山中学校の道に出た場面だと思います。
向こう側の福住や小松、高松にものすごい数の炭鉱住宅が見えますね。
いや、目頭が熱くなります。

その坂から見た夕張駅ですね。
蒸気機関車や駅のホームが見えます。
すばらしいと思います。

福住の住宅街です。
いや、すごいです。

社光の団地です。
最盛期を過ぎて15年が経過していたとはいえ、ものすごい数の住宅が当時の夕張の活気を教えてくれます。

東山中学校の道から社光の道に下りるところだと思います。
あの場所が、こんな状態だったのですね。

1981年の住宅地図で場面を照合してみました。
倍賞が歩いたルートは赤点を右から左だと思います。
わたしもぜひこのルートを歩いてみたいと思います。
みなさんもDVDを購入して、あの頃の夕張の映像をご覧いただきたいと思います。
- 2012/02/14(火) 20:35:38|
- 夕張映画
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明治6年にライマン探検隊が発見した三笠の幌内炭田が空知の炭鉱の始まりでした。
また、その石炭輸送には鉄道が欠かせないものでした。

明治12年に幌内炭鉱開坑に着手、明治15年に小樽手宮から三笠幌内まで鉄道が開通、空知の炭鉱の歴史はいち早く幌内で華々しく幕開けしていましたが、初期の炭鉱は政府の官営炭鉱であり、明治21年までの6年間で黒字だったのは2ヵ年のみで、他の4年間は莫大な赤字を計上しており、経営感覚の欠落と官僚的な非効率さは誰の目にもあきらかになっていました。

販路はほぼ道内に限られ、道外に販促拡大することができていませんでした。
それにもかかわらず石炭の荷捌きは常時渋滞をし、粉炭などの副産物の商品価値を見出せず、その処理のために逆に費用を掛けていたほどです。
隣の幾春別炭山は、経営不振のため早くも休山を余儀なくされていました。
このような非効率の穴埋めに、採炭事業を空知監獄に移し囚人労働を投入したりしていました。

明治20年、炭鉱経営の大幅な見直しに着手した道庁は、大胆な民営化に舵を切ります。
販売事業は炭鉱鉄道事務所長であった村田堤と銀行頭取で実業家の田中平八が設立した北有社という商事会社が独占して行うことになりました。
村田堤は、翌21年には幌内鉄道や夕張炭山の権利も獲得しました。
現代と同じようなことが起きていたのですね。

■堀 基 (ほり もとい)
北海道庁理事官であった堀と、これを支える薩摩閥は、薩摩出身の黒田清隆が長官になってからは北海道は全く薩摩閥の勢力に入っており、黒田が明治21年首相になってからは、堀は当時道庁長官だった永山武四郎をしのぐ勢力を持っていました。
道庁官僚のほとんどが薩摩閥という中で、炭鉱事業の現状に危機感を持っていた堀は、中央に出て黒田首相に北海道炭鉱鉄道会社創立案を提示し、さらに黒田は各界の賛同を得ようとしました。
創立発起人には、華族代表の徳川義豊候、日本郵船社長、日本鉄道社長、北有社の田中平八、社長は堀が官選され、言論界実業界からは福沢諭吉も同意をしていました。

■明治21年竣工 旧北海道庁
明治22年10月、北炭の設立認可となり、手宮・幌内・幾春別の鉄道99.8キロ、幌内炭山の付属物件と幾春別、空知、夕張の権利一切を北海道炭鉱鉄道会社が持つことになりました。
同年11月18日、資本金650万円にて北海道炭鉱鉄道会社が発足し、本店を小樽手宮町に置きました。
初代社長は、改革派の急先鋒で自ら官職を辞して北炭創立を提唱した堀基でした。

明治22年の同じころ、前年に大炭層が発見された夕張では坂市太郎が測量と地質調査を繰り広げており、ほぼ全域を把握したころでした。
そして、夕張炭山の採掘権は村田堤から北海道炭鉱鉄道会社が譲り受けました。
※明治39年10月に社名が北海道炭鉱汽船株式会社に変更しています。
※参考資料
夕張市史
歴史写真集 みかさ
北炭70年史
- 2012/02/12(日) 14:56:03|
- 夕張歴史
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