ナルセさまから送っていただいたお写真を含めてご紹介いたします。
往年の夕張駅は、市の物流の柱として経済を支え、最盛期本町以北45000人の生活の足として、無くてはならない町の拠点でした。

明治25年11月1日、夕張炭山支線として追分から線路が敷かれ貨物線が開業しました。
翌年4月1日に夕張駅と紅葉山駅が開設され、一般旅客輸送も始まりました。
計画当初は、馬追から栗山を経て夕張に至る予定でしたが、工事が難しいこと、経費がかかること、夕張鉱開発上適さないことなどを理由に、明治25年2月25日に変更願いが北海道庁に提出され、工事がかなり進んでいた途中の大規模変更に事態は紛糾、北海道炭鉱鉄道会社社長が辞任に追い込まれることとなりました。
結局、同年7月2日に正式に認可され、11月に開業したことになります。
当初の計画通りだったら、夕張の町並みも変わったものだったかも知れません。

11月1日の試運転開通式は、この義経号を用いて盛大に行われたそうです。
この年の冬期間は運転を休止し、本格的に運行したのは翌年4月1日からでした。

■夕張駅 旅客・貨物 取扱状況
昭和11年 乗客65984人 降客64805人 貨物到着73198トン 発送1295789トン
昭和23年 乗客499058人 降客449877人 貨物到着156257トン 発送705469トン
昭和29年 乗客793843人 降客781335人 貨物到着116856トン 発送959530トン
■道内各駅との貨物発送量比較順位 昭和10年
一位 夕張駅 1033953トン
二位 上砂川駅 726386トン
三位 神威駅 567837トン
四位 幾春別駅 547031トン
五位 清水沢駅 507958トン
六位 幌内駅 419993トン
・・・・
十位 鹿ノ谷駅 251784トン
■全国各駅との比較順位 昭和10年
一位 梅田駅 (大坂)
二位 綴(つづら)駅 (現内郷駅・福島)
三位 夕張駅

道内1位、全国3位という貨物量を誇った、そんな隆盛の夕張駅も昭和59年に荷物取扱中止、昭和60年に路線短縮され、夕張駅は本町市役所裏に移転し、この駅舎は石炭の歴史村の管理事務所として使われていました。

その管理事務所は旧旭小学校に移転し、平成18年10月10日ついに取り壊しの時が来ました。
市財政破綻がほぼ確定した年に、ひっそりとその幕を閉じたのでした。
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わたしの夕張駅の思い出は、高校生の頃、兄弟だけで小学生の頃以来初めて汽車で夕張に来たことがありました。
夕方そろそろ帰ろうと本町の上通りの踏み切り付近にあった宝来軒でラーメンを食べていました。
食べ終わり、フッと時間を見ると汽車発車時刻1分前くらいでした。 これを逃すと相当待たないと次がなかったと思います。
あわてて走り出し、踏み切りから線路を走り300メートルくらい?離れた駅のホームを目指しました。
遠くに汽車と駅員さんが見えました。
当然怒られる覚悟でしたが、よく見ると駅員さんが大きく手を振って「早く!早く!」と、線路を走るわたしたちを呼んでいました。
何とか間に合いお礼を言い、汽車は発車しました。(発車時間を過ぎていたと思います)
札幌の駅では考えられない暖かい配慮にとても感動し、また夕張に必ず戻ってこようと話し合いました。
それから30年が経ち、何もかも変わってしまったこの町で、ひとりあの頃の面影を探し回っている自分は何を探しているのかな、答えのない旅を続けているような気がします。
- 2012/01/22(日) 18:15:32|
- 社光・高松・小松
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ロケットマンさんから、あの頃の夕張画像第二弾を送っていただきました。
昭和50年頃の撮影だそうですが、もっと懐かしい画像に見えますね。

暑い夏の日に、たくさんの子供たちが屋外で元気に遊ぶ姿が、夕張斜陽とはいえ、往年の末広の活気を思い出させてくれます。
向こう正面に見えているのはお風呂屋さんでしょうか。
写真集のひとコマのようですね。

シホロカベツ川を渡った新夕張鉱のズリ山から撮影された末広の全景です。
鹿ノ谷方面から右に写真3枚続いています。
川岸こちら側に、以前ご紹介したコークス場跡が見えます。
鹿ノ谷の丘には夕張北高が。
こちらの方角の主な建物は、貯木場、新夕張保育園、夕張幼稚園、共同浴場がありますが、炭住が多すぎて探すことはできません。
貯木場は子供達の遊び場だったそうです。
「カミキリ虫が居ましたし貯木場はカクレンボに最適 木の山から山へ飛び移り忍者ごっこ 木工場へ忍び込んで鋸刃の折れたのを拾いビニ-ルテ-プでとめて十方手裏剣を作りました。コ-クス場の所でも小さな引き込みが分岐していまして貨車が2両位停まれ コンベアでガラガラと積み込んでいました。また機関車への給水施設が有った記憶が有ります。」・・・ロケットマンさん談

こちらの方角には、左から夕張北高、夕張税務署、夕張法務局、末広墓地がありますが、住宅が多すぎてわたしはほぼ見つけられません。

現在の夕張駅のある方向の昔です。
こちらには、新夕張神社があるはずなのですが・・・
手前のツインの橋は、奥側が鉄橋の線路で今も残っています。手前側は木造で人や車用ですが現在は有りません。夕鉄の線路の引込み線が、鹿ノ谷駅から分岐して木工場、貯木場の傍を通り橋を渡り新夕張鉱の選炭場まで行きました。 橋の手前には踏み切りが有り、門番?さんの待機所が有り遮断線を電動で上げ下げしていたそうです。
これらの撮影から35年あまりで急速に変わってしまった、往年の末広の町並みに圧倒されます。
昭和50年といえば、わたしが生活していた頃なのですが、夕張といえばとにかく住宅が密集していて町中子供だらけというイメージで、これらの風景がおとぎ話になってしまうとは夢にも思いませんでした。
ロケットマンさん、画像をお送りいただきありがとうございました。
- 2012/01/18(水) 01:21:24|
- 末広
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こちらに時々コメントされている、夕張出身ロケットマンさんの学生時代の笑うに笑えない思い出です。
とても珍しい内容なので記事にさせていただきます。

今から45年ほど前、夕張北高の物理部に國枝先生という顧問の先生がいました。
この先生を慕って十数名の学生が部活動に参加していました。
時に、アメリカがアポロ計画で月面を目指すという時勢で、北高物理部でも一同大いに宇宙への夢を膨らませていたころでしたが、直接の動機は糸川博士のペンシルロケットでした。
その中でK.Y(イニシャル)の発案でロケット班が立ち上げられ、K.Y N.H Y.M(ダイヤルMさん)そして私K.S(ロケットマンさん)が参加いたしました。

注:アルバム編集委員のイタズラで「ガラクタクラブ」となっていますが、物理部です。
白衣右が國枝先生です。
全道の高校の研究発表の場で、夕張北高はどこよりも先駆けてロケットの打ち上げを成功させようということになりました。
顧問の國枝先生も大いに賛成し盛り上がりました。
間違いは、この実験中に起きました。

昭和40年7月、國枝先生以下、北高物理部のロケットマンさんダイヤルMさん他一同は、北高グランドでロケットの燃焼実験をすることになりました。
夏休みを利用して物理部恒例の有珠でのキャンプのときに、ロケットの発射実験をする前のテストでした。
固形燃料を手篭めしていましたが、危ないのでは・・・と言う事で水で湿らせて篭めて乾燥させて点火することにしました。
ところが・・・点火直後に大爆発、本町の谷間に大音響がこだましました
白煙が学校グランド半分くらいまで覆い、辺り一面が大きく真っ白になり、それはどこに居ても見えました。

注:発火直後の写真
怪我人や建物の被害はありませんでしたが、とんだ騒ぎになりました。
さて、なぜ爆発したのでしょう。
今にして思えば乾燥時にクラックが入ったのかも知れません。
それで異常燃焼で爆発です。
ちなみに後日、このグランドの爆発事件で警察から國枝先生に問い合わせがあったという噂がありましたが真偽のほどはわかりません。
このように、夏には燃焼実験をし、冬には西の山に向けて飛ばし、何度もテストが行われました。

あの頃のロケットマンさんの家の周辺。
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キャンプの日がきました。
有珠に向かうため、重いズックのテントを担いで鹿ノ谷駅からゾロゾロと蒸気機関車に乗り込み出発しました。
ロケット本体の金属製の筒と発火装置と固形燃料も持参しています。
これ、いまならテロリストでしょうか、多分捕まります。
注: 後日、国内でテロ事件が発生しましたが、爆薬の酸化剤に同じ物が使われていました。
また燃焼物については・・・それは秘密!。
この酸化剤が、わりと不安定で自然発火する事が有ると聞きました。良く事故が起きなかったものです。
三木薬局から数キロ単位で購入しましたが、三木さんでもこんな事知らなかったのでしょう。
キャンプ場に到着して、テントを張り一同海岸遊びで走り回っていたところ・・・
海岸の海に向かって右側に岬が有り その奥にウニが足の踏み場が無い程いっぱい有るのを見つけました。
地元の方に聞くと毒の有るウニとの事で、ビックリ危なかった・・・
(大人になって寿司屋で知りましたが、あれは馬糞ウニで美味しいんだと!)

早速ロケットを発射しようと準備にかかります。

点火!
ロケット花火の方が良く飛ぶ!と皮肉られたそうです。
國枝先生は、とても人気のある先生でした。
コンドー〇の話をよくしていて、男子が異常に盛り上がっていました。(女子生徒談)
今でも天国で國枝先生がボトル片手にそっくり返って大笑いしていそうです。
ヤッホ- 先生 御機嫌いかが!

注:教員集合写真
2列目右から7人目が国枝先生です。
もう、すべてが遠い昔の出来事になり、そんな真面目な学生だったロケットマンさんも還暦を過ぎたそうです。
おおらかなあの頃の夕張を感じさせる青春の思い出でした。
おわり
- 2012/01/12(木) 17:33:52|
- 夕張人
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