
栗山から夕張に入る道道3号線(札夕線)。
昭和30年代までは実は、二股峠を越えるこの旧道が夕張と札幌を繋ぐ唯一の幹線道路でした。
昔の地図にはこの道路が表示されています。
ライダーハウス跡から左手に入っていきます。

このあたりの雰囲気は、わたしが小学生の頃に探検して通りぬけた35年前と変わっていないと思います。
当事も廃材置き場みたいな場所でした。
人はもっと住んでいたと思います。

このアパートの2階にも人が住んでいました。
車をいたずらして遊んでいたわたしたちに、ここの2階の窓が開いておじさんに「こらっ!!」と怒られて逃げましたから。

昔はもっと道幅が広くて、建物がもう少しきれいでした。
痛々しい風景になってしまいましたね。

20年前は、この道はスープラでも通り抜けできました。
しかしいま入ってみると、途中土砂崩れがあったのでしょうか、1メートルくらいの段差ができていて、その手前にブロックが置かれて通り抜けは不可能な状況になっていました。
雑草もひどくて、とても道があったとは思えないです。
しかし、林道ナビにはしっかり道が鹿ノ谷まで続いています。
いつか、あの頃のように昔の人たちと同じように、ここを通り抜けたいと思っています。
車載カメラの走行動画
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VPS
- 2011/10/23(日) 21:46:31|
- 富野
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奥村チヨの終着駅 1971年12月25日発売
当事のプロモーションビデオの舞台に夕張が映っていました。
大スター奥村チヨが夕張でロケをしていたのです。
しかも、あるテレビ番組では、終着駅とは登川支線の登川駅を指しているとのことでした。
なんということでしょうか。
とても驚き、嬉しい気持ちになりました。

ここは紅葉山駅ですね。
今の駅前駐車場のところが線路跡だったころです。

往年の大スター奥村チヨ。
とても寒そうです。

紅葉山の車庫か物置の前の線路を歩いています。
いまではあり得ない撮影です。

紅葉山駅の待合室に入りました。
なんというか、昔の駅の風情がたまりません。
石炭ストーブがありましたね。
手前の男性が不自然に目立っている理由がわからないです。

奥村チヨさんがイスに座りました。
同じイスに座りたかったですね。
なぜか猫を連れています。

大スター奥村チヨに抱かれる猫がうらやましいです。

汽車を降りたのでしょう、大スターが駅から出てきました。
ここは滝ノ上駅ですね。
右側のポスターに夕張市とはっきり書かれています。

滝ノ上駅前で夕張市民に囲まれるスター奥村チヨ。
子供がたくさん居たのがわかります。

夕張市民に気軽にサインに応じるスター。
とても親近感がわいてきます。

それにしても、夕張人だと一発でわかりそうな人々の姿で、いかにも夕張的というのがうれしいです。

奥村チヨさんと夕張とのかかわりがわかって、とても嬉しいビデオでした。

これは終着駅を含めた4曲入りのEP盤レコードのジャケットです。
ここも夕張の駅です。

いまの滝ノ上駅です。
山の稜線が一致していますね。




翌年の紅白歌合戦で終着駅を熱唱する奥村チヨ。
現代でも通用する完璧な美貌に圧倒されます。
終着駅の舞台が夕張だったなんて驚きました。
- 2011/10/14(金) 16:50:57|
- 夕張映画
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真谷地西小学校跡地から

昭和51年の航空写真から
青い〇が5区。 赤い〇が4区。
5区の正面には真谷地西小学校があったのがわかる。(青矢印)
なお、4区には橋を渡ってしかいけない。(赤矢印)
現在、ここに住宅はひとつも残っていない

道路には、5区と西小学校を結ぶ横断歩道が残っている。
わたしは手をあげて渡った。

閉山当事の同じ場所。 (ふるさと真谷地・登川 松田芳明 より)

横断歩道上から5区入り口を望む。
学校から帰る子供たちも、この同じ風景を見たのだろうか。

最初の分岐のところ。
右側はかなりうっそうとした笹薮になっていて歩行困難なので、左側から入っていく。

坂道に縦に連なる炭住の土台の跡がはっきり残っている。
清水沢の居酒屋「ともゆき」のご主人が、ここにお住まいだったようで、当事の生活を詳しくお話ししてくれました。
石炭を運ぶ馬車が坂道で苦闘していて、とても気の毒に思っていたそうです。

奥に登ると、当事の門柱や生活用品の跡が残っています。
川沿いの坂に縦に連なる炭住跡地は、山と森に囲まれた自然の中にありました。
東側には広い公園もあったそうです。
ここも後数年で完全に森に還っていくのでしょう。
- 2011/10/10(月) 18:42:02|
- 真谷地
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