あの頃の夕張を求めて

澄みきった空気、山並みに囲まれた豊かな自然の中で、炭鉱で開かれた先代の営みの上に、貧しくものびのびと成長した、そんなあの頃の夕張を探す画像ブログです。

夕張保険金殺人事件

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皆様はご存知だと思います。
夕張の負の歴史と認めざるを得ない、残忍極まりない大事件がありました。
ここは、殺人犯 日高安政と妻 信子が事務所としていた白亜の豪邸である。
今でも南部青葉町の夕張川沿いに空き家の建物が残っています。

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1984年、事件当時のまま残されている日高組暴力団事務所。
雑草に囲まれ、見る影もなくなり、お化け屋敷のようになっていた。
死刑になった2人の魂は、ここにいるのだろうか。
暴力団がいたほど、夕張には活力がみなぎっていたということなのでしょうか。

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今年発売された『漫画実話ナックルズ4月号』という成人向け雑誌に、この事件が漫画でわかりやすく紹介されていました。
通信販売で購入しましたが、夕張歴史物として読ませてもらいました。

夕張には、このような負の歴史が他にもあります。
それらも夕張なのだと認め、負の遺産も背負いながら歴史を追い続けていきたいと思います。

【事件概要】
暴力団組長の日高安政が社長を勤めていた「日高工業」は、北炭夕張新鉱の下請けで入っており、1981年93名の死者を出した事故で7名の従業員が命を落とした。
この事故で1億円以上の保険金を手に入れた2人は、邸宅を建て、豪遊し、あっという間に使いはたしてしまった。
その後、不景気な夕張を離れ札幌で店を構えようとして、支度金として再び保険金を手に入れようとして生命保険を狙った事件を起こすのである。
1984年、配下の組員を使い、鹿島の宿舎に放火した。
従業員4人と子供2人、消防士1人が死亡する惨事となった。
その後、放火した配下の組員が自首し、日高安政と信子は逮捕された。
2人には死刑が求刑され、殺意を否認して争っていた裁判途中に昭和天皇が崩御した。
その恩赦を狙い、一転犯行を認め死刑が確定した。
恩赦は、明治・大正と天皇崩御の際に減刑が実施されており、その前に刑が確定している必要があったからだ。
しかし、期待していた恩赦は出ず、それならやっぱり再審すると申し立てたが当然却下された。
1997年8月1日、2人の死刑は執行された。
信子は、戦後3人目の女性死刑者であり、夫婦で死刑になったのは明治以来150年の歴史で初めてのことであった。
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  1. 2011/09/30(金) 19:45:30|
  2. 夕張歴史
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丁未の石碑群

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丁未地区周辺には、歴史を物語る石碑が数多く存在する。
いや、むしろ石碑からでしか町の存在を確認することができないと言ってもいいかも知れない。

『秋桜塚』碑   昭和61年10月1日 建立
昭和59年、夕張新炭鉱93名死亡の事故を受けて、会社社長でレコード歌手であったある方が『夕張哀歌』という曲と合わせて石碑の建立を市に申し入れ実現した。
除幕式には遺族など60人が列席したそうです。
趣旨としては、夕張の炭鉱殉職者全体を弔う意味あいのようだ。
自身の歌の宣伝という意味も含まれていたのかも知れない。
それにしても巨大な石碑であり、一体いくらかかったのか想像も出来ないくらいだ。

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『忠魂碑』    大正元年11月 建立
本町東山聖苑に存在していた石碑が、東山神社の廃社ののち、ここに集められたようだ。
実際には大正3年7月15日に公園の造成完成とともに石碑も披露された。
帝国在郷軍人会 登川村分会が建立したもの。
除幕式には、招待者数百人、村民他3~4万人が集まり、登川村開村以来の盛況だったそうだ。(夕張市史)
いまは、ひっそりと丁未の奥地に場所を替え、往年の活気を伝え続けている。
土台の形が当事と変わっているので、移転のときに作り直したのだろう。
肝心の石碑本体はひび割れており、大きく欠けて崩れている部分があり、当事と形が変わっている。

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『伊達政宗頌徳碑』  昭和4年9月8日 建立
これも、本町東山聖苑に存在していた石碑だ。
夕張になぜ伊達政宗??という疑問を感じていたが、どうやら、夕張の宮城県人会の望郷を目的として建立されたようだ。
こちらも土台は移転の時に新しく作り変えたものだ。

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『馬頭観音』   明治39年9月1日 建立
丁未の下の方にひっそりとたたずむ。
70~80人の名前が彫られている。
ここに至る柵が横倒しになっており、とても悲しい姿だ。
草刈はされているようで、今でもどなたかが管理されているようだった。

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『夕張循環道路開通記念碑』    昭和6年8月 建立
丁未のもっと町側、錦と富岡の中間あたりの道路脇にたたずむ。
どこが循環している道路かというと、夕張神社から山に上がり福住4区の上を横に通り抜け丁未まで真っ直ぐに伸びていた道路のことである。
福住
昭和51年の航空写真には、まだ循環道路跡が確認できる。
その道路の5mmくらい上を赤線でなぞったがおわかりになるでしょうか。
現在は、雑草の林道荒地のようになっていて、車では到底通り抜けることはできない姿になっている。
この道路は、当事一直線だった丁未までの道のりを、山側に大きく円状に迂回したルートなので”循環”という意味なのであろう。

夕張市には、往年の生活を伝える石碑が100基弱ほど現存している。
このブログで、ときどきご紹介させていただく予定です。
  1. 2011/09/29(木) 19:34:53|
  2. 丁未・錦・富岡・福住・住初
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日吉の日暮れ

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黄色いハンカチ広場の手前の床屋さん。
映画の舞台になった観光化された長屋よりも、こちらの建物のたたずまいに往年の賑わいを感じる。
玄関横のポストがすばらしい。
付近に家はないが、まだ営業しているのだろうか。

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日吉神社。
この周辺にだけ住居が集まっている。
炭鉱の中心部の町並みだったのだろうか。

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あたりは暗くなってきた。

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このあたりは状宅密集地だった。
床屋さんだけが、あの頃の夕張を物語っているようだ。

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こんな山の道にも街灯が。
暖かい。

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これもまた、あの頃の夕張なのだ。
  1. 2011/09/27(火) 12:01:58|
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tomato (旅芸人)

Author:tomato (旅芸人)
旅の友 フォード エコノラインE350

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夕張は人生のふるさと。鹿ノ谷で過ごした楽しかったあの頃を決して忘れません。現在は札幌在住。
往年の夕張を追い求めています。
上の写真は探索専用パジェロミニ。
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カメラ:Nikon COOLPIX P500

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