
沼ノ沢から線路を渡ると、袋小路の町 真谷地があります。
こんな山奥に町があったなんて・・・そう、ここも炭鉱で開かれた場所でした。
山奥から沼ノ沢に向かって、一区、二区、三区・・・と呼んでいました。
往年には炭鉱住宅が立ち並び、人々の生活の場として学校や商店もあり、盆踊りも行われていたそうです。
今回は最深部の一区の現在の姿を確認してきました。

二区のゲートをくぐり、坂道を進みます。
当時は当然ながらゲートはありませんでした。

最初のカーブのところです。
年期の入った土留めの壁が迎えてくれました。

道の右手は、このように目もくらむ崖になっていて、正面の山の上には真谷地神社と真谷地小学校がありました。
低地に見える木材置き場は、かつては住宅が並んでいました。

道のわきの側溝のコンクリートが、人が生活していた痕跡を残しています。

案内標識も残っていました。

ゲートを過ぎて10分ほど坂を上ると、広い住宅地跡と思われる場所に出ました。

ちょうど上の航空写真の住宅が並んでいた道です。
狭い崖の道を過ぎて、こんな広い丘に出るとは、何かの行楽地として開放するとかゲートで通行止めにしておくのがもったいない気もします。

住宅の土台に段差をつけていた痕跡が残っています。
ここが一区の住宅地であったことを物語っているのですね。

ここも盛り土をしたか、または地面を斜めに削ったか、人工的に平地を整備したような痕跡だと思います。
公園かグランドだったのでしょうか。

真谷地一区は、青空が近い自然に囲まれた天空の丘の上のオアシスに見えました。
この道を更に進むと下りになり、上の沢という集落があったそうです。
いまは、住宅や建物など皆無な森の中となり、舗装されていなかった当時の道は廃道化して雑木林に変わってしまっていました。
100年後の人たちは、ここが住宅地だったのだと気がつくでしょうか。
ちなみに、清水沢の居酒屋ともゆきのご主人は、ここ真谷地一区のご出身です。
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- 2012/07/16(月) 21:52:34|
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真谷地の共同墓地の最深部に、中国人労働者の犠牲者のお墓があると聞きました。
まだ雪が深かったのですが探してきました。

一番奥の墓地を見下ろす丘の上ありました。
『中国人労務者の墓』
昭和二十三年五月十日建立
由来
太平洋戦争の末期、労働力不足を補うため、朝鮮人や中国人が連行されてきて、炭鉱や土木工事の重労働に従事、多くの犠牲者を出しました。
夕張には1391名の外国人が入山し、369名が死亡したと言われています。
真谷地炭鉱 417名中60名死亡
角田鉱 294名中76名死亡
大夕張炭鉱 292名中85名死亡
大夕張地崎組 383名中148名死亡
死亡した者の遺骨は引揚げ時に同僚に抱かれて帰国しましたが、残骨を埋めていた共同墓地内に平和鉱業所が墓を建立しました。
真谷地炭鉱の労使で毎年お盆に慰霊祭を行ってきたそうです。

自分の故郷とは何の関係もない国に連行されて亡くなった多くの方々は、日本や夕張の事をどう思っているのでしょう。
日本に対する視線が、他の東南アジア諸国と違うところはこれだと思います。
過剰な日本批判や侵略は許すことは出来ませんが、反面このような歴史も背負っていかなければならないのだと思いました。
- 2012/04/27(金) 01:24:00|
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少し前の写真です。
真谷地にプールがあったのでした。

真谷地西小学校に隣接する場所にありました。
昔でも水は緑色に濁っていましたが、子供でいっぱいで泳ぎ回り元気に遊んでいたようです。

3年くらい前に取り壊されました。
真谷地にプールがあったなんて・・・と驚かれる方がいるかも知れません。
このように、往年の遊び場が消えてしまうのはとても残念です。
- 2011/11/18(金) 16:55:37|
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