
真谷地西小学校跡地から

昭和51年の航空写真から
青い〇が5区。 赤い〇が4区。
5区の正面には真谷地西小学校があったのがわかる。(青矢印)
なお、4区には橋を渡ってしかいけない。(赤矢印)
現在、ここに住宅はひとつも残っていない

道路には、5区と西小学校を結ぶ横断歩道が残っている。
わたしは手をあげて渡った。

閉山当事の同じ場所。 (ふるさと真谷地・登川 松田芳明 より)

横断歩道上から5区入り口を望む。
学校から帰る子供たちも、この同じ風景を見たのだろうか。

最初の分岐のところ。
右側はかなりうっそうとした笹薮になっていて歩行困難なので、左側から入っていく。

坂道に縦に連なる炭住の土台の跡がはっきり残っている。
清水沢の居酒屋「ともゆき」のご主人が、ここにお住まいだったようで、当事の生活を詳しくお話ししてくれました。
石炭を運ぶ馬車が坂道で苦闘していて、とても気の毒に思っていたそうです。

奥に登ると、当事の門柱や生活用品の跡が残っています。
川沿いの坂に縦に連なる炭住跡地は、山と森に囲まれた自然の中にありました。
東側には広い公園もあったそうです。
ここも後数年で完全に森に還っていくのでしょう。
- 2011/10/10(月) 18:42:02|
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真谷地の線路跡と道路の交差していた分岐
往年の真谷地炭鉱中心部
事務所と詰め所、線路、竪坑、ポケットなど密集していた。
いまは山の林道のようにしか見えない光景が、かつて鉱業地帯だったと説明されても信じられない。
左の道を奥に上がって行くと、住宅が並んでいたのだ。
商店もあった。 小学校もあった。
たくさんの炭鉱マン家族の生活があった。

竪坑跡 この上に10階建てのビルのような高層建築物があった。

奥に入った真谷地2区の歩道。
どう見ても森の中。
こんなところにわざわざ歩道が必要なほど、往年の賑わいがあった。
人が歩いたのだ。

2区の行き止まりのゲート。
当事はゲートもなく、このあたりに商店があった。
道をこのまま進むと1区の住宅があった。
その上には、上の沢という集落も。
この道から降りて、右手の草むらに入って下っていくと小学校があった。

すべて、かつての住宅地そのものを写しているのだ。
もう、胸が痛くなる光景である。
3年前の真谷地

真谷地炭鉱事務所跡
この歴史的な産業遺産を取り壊されたとき、ショックで市役所に苦情を入れた。
内地からも見学者が耐えない芸術的価値があった。

真谷地炭鉱 作業員詰め所
竪坑の手前にあった。

小学校への道を下った。
小川が流れていた。
橋がかかっていた、通学路の橋げたが残っている。

その橋げたに沿って坂を上っていく。
まるであたりは雑草と林の森だ。
ここは、かつての小学生が登校した道なのだ。

笹薮の中に・・・コンクリートの塊が。

もう、涙で言葉がでなかった・・・

往年の真谷地小学校
- 2011/08/31(水) 15:31:41|
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