あの頃の夕張を求めて

澄みきった空気、山並みに囲まれた豊かな自然の中で、炭鉱で開かれた先代の営みの上に、貧しくものびのびと成長した、そんなあの頃の夕張を探す画像ブログです。

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福住小学校

昭和31年10月1日 開校
昭和50年3月31日 閉校

戦後、急速な人口増加により、福住一区の夕張第二小学校(後の旭小学校 廃校)は、児童数三千人を超える超マンモス校となり校舎の増築の繰り返しが階段状の異様な校舎となり、なおかつ二部授業を行い、体育は廊下で行ったり、過密度甚だしい人数でした。
福住五区の連絡所付近の炭住を改造し、仮教室として児童の一部を分散させたりしていました。
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こうした中、昭和31年10月1日、福住三区に学級数18の福住小学校がついに完成しました。
机や椅子は第二小学校から、先生や父母、児童が総出で運び込んだそうです。
それでも、校舎が小さめだったので、開校当時1学年1クラス70人余り、教室は前から後ろまでいっぱいで歩くことも椅子を動かすことも出来なかったそうです。
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新校舎は、北陵中学校のすぐ奥側に作られました。
当初、小学校に体育館がなかったので卒業式は中学校の体育館で行いました。
グランドは中学校と共同で使用していました。
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写真中央に福住小学校、手前が北陵中学校、右側の縦に走る2本線の左が福住人車、右がズリ捨て線です。
福住小学校の校区は、福住三区・五区・六区(この頃すでに七区という概念は一般的に消滅していたので除外)と富岡で、ここだけで約2000世帯、人口7000人の校区でした。
標高600メートルの山の上から登校してくる児童と下から登ってくる児童と、北陵中の生徒も集まり、福住は大変な活気のある地区だったことでしょう。
町全部がものすごい山の斜面であり、福住の子供は坂道を歩くのは得意だが平地を歩くのは苦手だ、と語られたくらいでした。
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冬の福住の豪雪は大変なもので、玄関が開かなくなるほど住宅がすっぽり埋まったりして臨時休校や授業打ち切り集団下校も数多くありました。
下の線路と学校では気温差が3、4度あるとか、胸まで積もった雪を漕いで登校したとか、住宅の屋根の上を歩いて登下校したとか、そういう信じられないエピソードが普通に起こっていたそうです。
卒業式の前日に大雪になり、体育館の窓がすべて雪で埋まり、真っ暗な中で式をあげたこともあったそうです。
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福住小学校1年生の遠足
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6年生の音楽の授業
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閉校間近の教室
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グランドで運動会。
右奥の校舎が福住小学校、左手の校舎は北陵中学校。
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昭和35年以降のエネルギー転換政策により、石炭産業の急速な退潮が始まりました。
この年、夕張二鉱でも死者42人を出すガス爆発事故が起こりました。
福住小学校の児童数は、開校昭和31年688名から、昭和35年878名と増えましたが、これ以降減少の一途で昭和48年の夕張一鉱閉山が決定打となり、昭和49年には人車が廃止、昭和50年閉校時の児童数は69名になっていました。
本町以北の急速な衰退とともに住人も集約され、丁未小学校とともに第二小学校の後継の旭小学校に統合、廃校となり、19年の短い歴史に幕を下ろしました。

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現在の跡地。
広々とした空間が当時の姿を物語っていますが、住宅建物はひとつもなく、とても寂しい風景ですね。
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その後、跡地は花とシネマのドリームランドの広大な花壇がありましたが、現在は幾何模様の道路とこのオブジェだけが残りましたが、福住小学校には記念碑が残っていないのでこれを活用できないでしょうか。
ブロンズの碑で、これを注文して作ったら大変な値段だと思います。
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山側に残されているこの池の跡は、福住小学校の時代に昭和43年の教職員・父母・児童の協力で全道各地から集めた石を陳列して作られた『岩石園』のなごりだと思われます。
当時とても価値のある石もあったようで、新聞にも報道されたそうです。
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ちなみに、上の職員集合写真の前列右端の志和先生は、昭和50年に福住小学校閉校ののち鹿ノ谷小学校に転任され、4年生だったわたしの担任になりました。
偶然見つけた写真で懐かしく思い出されました。
福住小の閉校記念誌では、このように先生紹介されていましたが、はたしてどうだったでしょうか。
とても若々しくて思い出の先生です、お世話になりました。
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  1. 2012/06/10(日) 19:48:14|
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『せんの木物語』の木はどこ?

夕張出身の、ペーパームーンさんから2年前に貸していただいた冊子です。
「白峰丁未が里 三百余年伝 せんの木物語」
平成14年 石炭の歴史村観光発行の、史実を基にしたドキュメントです。
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物語は、江戸時代の1662年頃、夕張がまだ全くの未開の森だったころに始まります。
あの松浦武四郎が生まれる150年ほど前です。
砂金取りで夕張川を遡ってきた松前藩の和人にアイヌの人々が道案内で随行してきました。
シホロカベツ川でも砂金が探されたが、ここにはそれはなく和人たちは引き返していきましが、アイヌの一部は、ここは人跡未踏の新天地として住み着きました。
シャコロモとワブナの夫婦が丁未に住み着き(旧一鉱事務所付近)、これが丁未の最初の住人だったとのことです。
鹿を取って食料にして、子供を育て、シャクシャインの乱で招集されたりしましたが、平穏に暮らしていました。
その子孫も、社光や高松に入植してきた鷹狩りの和人と激突して勝利したり、自分たちの縄張りを守っていました。

それから更に120年が過ぎ、明治13年、子孫トラパミがヒグマに誘われ、長男ショウラムが7年かがりでそのヒグマを日高で仕留め仇討ちし、途中恋仲になったタピカをつれてやっと丁未に戻りましたが、両親はすでに亡くなっていたそうです。
シャコロモから続いた丁未アイヌの歴史は、明治20年ショウラムとタピカが丁未を離れ一旦終わります。

その翌年、明治21年に坂市太郎が大炭層発見。
急速に炭鉱開発が進んだ丁未は一変し、多くの人々が入植してきました。
明治25年に一番坑で大爆発がおき18人が死亡しました。
この犠牲者の中に芽沼炭鉱から移ってきたアイヌの若い夫婦がいました。
その夫婦の5歳(男)4歳(男)2歳(女)の幼い子は、それぞれ引き取られ行方がわからなくなりました。

それから15年後、幌内から丁未部落に入ったアイヌの青年が、その飯場で働いていたアイヌの若夫婦が自分の弟と妹と知り、兄妹夫婦でありながら本人たちはそれに気がついていないことに愕然とします。
そう、この3人はあの幼い兄弟妹だったのでした。
あまりにも残酷な事実に兄弟の名乗りをあげることも出来ず、その事実をこの夫婦の仲人だった飯場の親分、橘内次助(後の町会議員)にだけ告げたのでした。
若夫婦には、あと5ヶ月ほどで出産予定がありました。
この青年は、飯場の横にせんの木を植えて、二人の幸せを祈り合掌しました。
そして、丁未を去り二度と戻っては来なかったそうです。

シャコロモから続いた丁未アイヌと、このアイヌ3兄弟が同族である証拠はありませんが、両親が丁未坑の開坑を知り、ふるさとを思い芽沼から戻ってきたという可能性もあるのではないでしょうか。
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この写真が、アイヌの青年が植えたせんの木だそうです。
明治40年に撮影されたものです。
資料では、今でも丁未2区の矢本文平氏の横に大木となって実在している。と書かれています。
「二度とこのような不幸な夫婦が生まれないように」、このせんの木は丁未で大切にされたそうです。
大盆踊りも、このせんの木のある広場で行われたそうです。

この写真と情報を頼りに、せんの木を探しに行きました。
ヒントは、丁未の崖と山の稜線と角度、木は小高い場所で奥側低地に飯場があったと思われる広場があった場所。
なにより、この角度で地形が一致する場所を探しました。
丁未2区といえば、丁未小学校や郵便局のあった場所です。
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この木しかないと思いました。
あたりに雑木林はなく、地形が一致する箇所はここしかありません。
もう少し崖が近くに見える場所のような気もしますが・・・
せんの木をご存知の方がおりましたら、お知らせいただきたいと思います。

ちなみに、せんの木とはどんな木なのか検索してみました。
「栓の木」別名「針桐」
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ウコギ科の落葉高木。山地に自生。枝にとげがあり、葉は手のひら状に裂けていてキリに似る。7月ごろ、黄緑色の小花が球状に集まったものが傘状につき、藍色の丸い実を結ぶ。材をげた・家具などに使用。栓(せん)の木。やまぎり。
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7~8月には枝先にこのような花が咲くそうです。
  1. 2012/01/26(木) 22:31:55|
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夕張神社

本町より北側、歴史村駐車場の向かい側に夕張神社があります。
市内で最も古い神社です。
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明治23年4月に夕張炭山の開坑が始まり、9月に鉄道敷設工事が始まりましたが、工夫・人夫ともに仕事に熟練していなかったので死傷者が相次ぎ、「山神様が幾万年もの間秘蔵していた宝物を人間が勝手に掘り出したので、山神様の怒りにふれ祟られたのだ」と信じる者もいました。
明治24年頃、片桐忠吉・石川市太郎(飯場主)らが発起人になり、採炭所次役古川浩平の賛助を得て、斜坑の上”登川村夕張炭山字社光”松尾国太郎が営んでいた浴場の右方に九尺角の拝殿を築造したのが最初でした。
宗教によって人心を安定させ災害を防止したいという願いがあったそうです。

しかし、それでも明治26年に工夫の暴動が発生し、逃亡する者や商人では離散する者もいました。
さらに、一番坑で夕張炭山で初の爆発事故が起こり、炭山全体が浮き上がり収拾出来なくなりました。
明治27年に拝殿が鬼門に当たると占った当時の北炭社長 高島嘉右衛門により、現在の場所に移され登川神社と称しました。
※後の高嶋易断のその人は、この高島嘉右衛門のことです。
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大正11年に焼失。
翌年に再建され、名前は”夕張神社”と改称され現在に至ります。
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本殿に掲げられている扁額は、元海軍大将 東郷平八郎の文字として署名されています。
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夕張市史には、戦前に境内に軽巡洋艦『夕張』の砲弾2個が建置されたと書かれていますが、現在は見渡す限り砲弾は見つけられませんでした・・・・当然ですよね。
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絵馬がたくさん奉納されています。
御利益は、『五穀豊穣』『商工繁栄』『市内平安』『家内安全』『学問成就』『縁結び』だそうです。

いまは静かな夕張神社ですが、あと20日もすれば初詣で賑わうのでしょうね。
市内にある他の神社のレポートも随時行いたいと思います。
  1. 2011/12/07(水) 19:09:01|
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Author:tomato (旅芸人)
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夕張は人生のふるさと。鹿ノ谷で過ごした楽しかったあの頃を決して忘れません。現在は札幌在住。
往年の夕張を追い求めています。
上の写真は探索専用パジェロミニ。
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カメラ:Nikon COOLPIX P500

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