夕張循環道路開通記念碑

この碑を発見した時は特に何も感じなかったものです。
よくある石碑のひとつで景色の一部と思ってましたが。
しかし碑文をよくみると「循環道路??」と疑問に感じ、循環とは円状に回る道路のことであり、そんなところ夕張にあったっけ?と。
掲示板 思い出の散歩道で議論を重ね、ついに場所が特定できたのです。

以前にも掲示した地図です。
昭和6年開通、住初の夕張神社横から山に登り、福住を大きく山側に回って丁未まで”循環”している道路があったのでした。
記念碑を作るほどの道路かな?と感じましたが、当時は丁未に行ける道は下の線路沿いから登る道が唯一であり、交通の往来が激しく大変な不便をしていたそうです。
休日返上の無償労働で錦の沢を埋めて道路を整備、地域住民の念願だった快心の道路だったのです。
夕張循環道路を丁未方面から通行してみました。
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VPS福住5区付近で土が盛られており通行不可能になっていました。
残念・・・

ここが行き止まりであろう。
すごい高さがわかりますか?
すぐ横は崖ですが、昔はこんなところを通行したのでしょうか・・・

土砂から岩が突き出ており、危険すぎます。

土砂の向こう側の様子です。
写真では遠近感がわかりずらいですが、ものすごい下り坂なのです。
実はわたし昨年、探索車でここを乗り越えて下ったことがあります。
その先は一旦平地になっていて、そのまた先は更に通行絶対不可能な崖に下っています。
ここは土砂崩れが起きて通行止めにしたのだと悟りました。
来た坂を振り返ると、とてつもない急勾配で帰れなくなった・・・と汗が出ました。
助走を付けて何度も突撃しても登り切れなく、すぐ横は崖で勢いよくハンドルを取られとても危険でした。
車を諦めようかと思ったほどです。
循環道路は車の走破は絶対に不可能ですので、歩いて探索しましょう。
徒歩でも無理かな・・・
住初 夕張神社横からの登り口(最初の1分ほど)
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VPSああ、あの頃の夕張の勢いを物語る道『夕張循環道路』
夕張本町より北側だけで4万5千人という超過密な中心部の生活を支えた廃道のリポートでした。
- 2011/11/01(火) 18:05:33|
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福住に残る、福住集会所。 福住最後の木造建築物だ。
ここ以外の当事の建物はすべてなくなってしまいました。
こちら側は、お風呂屋さんだったそうです。
裏側は半分だけ取り壊されたようですが、集会やそろばん塾などで使われていたそうです。

小さい車なら、はくせい博物館の建物から小道を上がって目の前まで入っていけます。
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VPS
冬の福住集会所。

大きな拡声器が残っている。
福住全盛期には、どんな放送がされたのだろうか。

昔から増改築されてきた歴史が伝わる。
まだまだしっかりしている。

雪がもたれ掛かっていても頑張っている。

電気メーターだ。
平成21年7月14日に交換されている。
まだまだ現役だということがわかる。
いや、そう思いたい。
集会で使用する申請をしたら貸してくれるだろうか。

3年前まで、この建物も残っていた。
集会所より100メートルくらい北側の、花とシネマのドリームランド入り口のあたりだ。
ここは商店が並んでいたので、そのうちの1軒が残っていた。
しかし、建物は豪雪に押しつぶされ、その後完全に撤去されてしまった。

映画 幸福の黄色いハンカチの場面に、一瞬だけここの景色が映る。
福住集会所の手前に、家政女学院がわかる。
いまの博物館のところに生協があった。
土手の下には福住プールがあるのがわかる。

もう少し丁未方向に進むと、道道に橋がかかっている。
福住橋という名前だが、完成は昭和63年10月31日と新しい。

人車跡。
福住橋の向かい側、いまでもはっきり跡が残っているのがわかる。
福住と富岡の境界を縦に走っていた人輸送専用のトロッコだった。
夕張は、山肌に住宅が頂上までびっしり建っていたので、人の往来をスムーズにするため、山頂とふもとを直線で結ぶケーブルカーだった。
1945年(昭和20年)から1974年(昭和49年)まで実在した。
福住は戦前から戦後に栄えた古い町で、往年の夕張を語る場合なくてはならない。
全道一の生徒数を誇った夕張第二小学校も福住である。
後日、この小学校にも触れたいと思います。
- 2011/10/05(水) 19:31:07|
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丁未地区周辺には、歴史を物語る石碑が数多く存在する。
いや、むしろ石碑からでしか町の存在を確認することができないと言ってもいいかも知れない。
『秋桜塚』碑 昭和61年10月1日 建立
昭和59年、夕張新炭鉱93名死亡の事故を受けて、会社社長でレコード歌手であったある方が『夕張哀歌』という曲と合わせて石碑の建立を市に申し入れ実現した。
除幕式には遺族など60人が列席したそうです。
趣旨としては、夕張の炭鉱殉職者全体を弔う意味あいのようだ。
自身の歌の宣伝という意味も含まれていたのかも知れない。
それにしても巨大な石碑であり、一体いくらかかったのか想像も出来ないくらいだ。

『忠魂碑』 大正元年11月 建立
本町東山聖苑に存在していた石碑が、東山神社の廃社ののち、ここに集められたようだ。
実際には大正3年7月15日に公園の造成完成とともに石碑も披露された。
帝国在郷軍人会 登川村分会が建立したもの。
除幕式には、招待者数百人、村民他3~4万人が集まり、登川村開村以来の盛況だったそうだ。(夕張市史)
いまは、ひっそりと丁未の奥地に場所を替え、往年の活気を伝え続けている。
土台の形が当事と変わっているので、移転のときに作り直したのだろう。
肝心の石碑本体はひび割れており、大きく欠けて崩れている部分があり、当事と形が変わっている。

『伊達政宗頌徳碑』 昭和4年9月8日 建立
これも、本町東山聖苑に存在していた石碑だ。
夕張になぜ伊達政宗??という疑問を感じていたが、どうやら、夕張の宮城県人会の望郷を目的として建立されたようだ。
こちらも土台は移転の時に新しく作り変えたものだ。

『馬頭観音』 明治39年9月1日 建立
丁未の下の方にひっそりとたたずむ。
70~80人の名前が彫られている。
ここに至る柵が横倒しになっており、とても悲しい姿だ。
草刈はされているようで、今でもどなたかが管理されているようだった。

『夕張循環道路開通記念碑』 昭和6年8月 建立
丁未のもっと町側、錦と富岡の中間あたりの道路脇にたたずむ。
どこが循環している道路かというと、夕張神社から山に上がり福住4区の上を横に通り抜け丁未まで真っ直ぐに伸びていた道路のことである。

昭和51年の航空写真には、まだ循環道路跡が確認できる。
その道路の5mmくらい上を赤線でなぞったがおわかりになるでしょうか。
現在は、雑草の林道荒地のようになっていて、車では到底通り抜けることはできない姿になっている。
この道路は、当事一直線だった丁未までの道のりを、山側に大きく円状に迂回したルートなので”循環”という意味なのであろう。
夕張市には、往年の生活を伝える石碑が100基弱ほど現存している。
このブログで、ときどきご紹介させていただく予定です。
- 2011/09/29(木) 19:34:53|
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