末広の見晴らしのよい高台に、末広墓地があります。

その中に、ひときわ大きくそびえ立つ墓石がありました。
普通のお墓ではないようですが・・・

『北上坑遭難者之碑』 夕張礦一同
大正九年十月建立
大正九年六月十四日死亡
由来
大正9年6月14日、夕張炭鉱北上坑で起こったガス爆発は、死者212名、負傷者7名を出す大惨事でした。
会社はこの爆発のとき、他の坑道への誘発をおそれ、一人の救出も行わず坑口を密閉したのでした。
石碑の左右には遭難者212名の名前が刻まれ、うち12名は女坑夫であり、同じ名字が連なっているのは一家全滅を表していて、名前をしっかり見つめていると背筋が凍りつくものがあります。

足尾と夕張を中心に大正8年に結成された全国坑夫組合は急速に拡大し、支部の夕張連合は大正9年4月に約2千人で結成されました。
その直後に発生した北上坑の大惨事で、夕張連合は会社側に対して7項目の要求を掲げ、救援活動や遺族の見舞いを行い、北上坑大災害経過報告労働者大会を丁未小学校で開催し、会社と交渉を開始しました。
結果、死亡者平均賠償額の3.3倍の慰謝料を獲得しました。
それと、この死亡者全員の名前を刻んだ遭難慰霊碑の建立を認めさせたのでした。

石炭の歴史村の北側駐車場から見える場所(小松)に、北上坑坑口は現存しています。
この世にも恐ろしい大災害については、後日あらためて詳しくご紹介したいと思います。
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- 2012/06/03(日) 19:03:04|
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ロケットマンさんから、あの頃の夕張画像第二弾を送っていただきました。
昭和50年頃の撮影だそうですが、もっと懐かしい画像に見えますね。

暑い夏の日に、たくさんの子供たちが屋外で元気に遊ぶ姿が、夕張斜陽とはいえ、往年の末広の活気を思い出させてくれます。
向こう正面に見えているのはお風呂屋さんでしょうか。
写真集のひとコマのようですね。

シホロカベツ川を渡った新夕張鉱のズリ山から撮影された末広の全景です。
鹿ノ谷方面から右に写真3枚続いています。
川岸こちら側に、以前ご紹介したコークス場跡が見えます。
鹿ノ谷の丘には夕張北高が。
こちらの方角の主な建物は、貯木場、新夕張保育園、夕張幼稚園、共同浴場がありますが、炭住が多すぎて探すことはできません。
貯木場は子供達の遊び場だったそうです。
「カミキリ虫が居ましたし貯木場はカクレンボに最適 木の山から山へ飛び移り忍者ごっこ 木工場へ忍び込んで鋸刃の折れたのを拾いビニ-ルテ-プでとめて十方手裏剣を作りました。コ-クス場の所でも小さな引き込みが分岐していまして貨車が2両位停まれ コンベアでガラガラと積み込んでいました。また機関車への給水施設が有った記憶が有ります。」・・・ロケットマンさん談

こちらの方角には、左から夕張北高、夕張税務署、夕張法務局、末広墓地がありますが、住宅が多すぎてわたしはほぼ見つけられません。

現在の夕張駅のある方向の昔です。
こちらには、新夕張神社があるはずなのですが・・・
手前のツインの橋は、奥側が鉄橋の線路で今も残っています。手前側は木造で人や車用ですが現在は有りません。夕鉄の線路の引込み線が、鹿ノ谷駅から分岐して木工場、貯木場の傍を通り橋を渡り新夕張鉱の選炭場まで行きました。 橋の手前には踏み切りが有り、門番?さんの待機所が有り遮断線を電動で上げ下げしていたそうです。
これらの撮影から35年あまりで急速に変わってしまった、往年の末広の町並みに圧倒されます。
昭和50年といえば、わたしが生活していた頃なのですが、夕張といえばとにかく住宅が密集していて町中子供だらけというイメージで、これらの風景がおとぎ話になってしまうとは夢にも思いませんでした。
ロケットマンさん、画像をお送りいただきありがとうございました。
- 2012/01/18(水) 01:21:24|
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末広団地の奥、シホロカベツ川沿いにコークス場の跡が残っています。
当時、コークス窯は各所にありましたが、往年の形を留めているのはここだけだと思います。

コークスとは、石炭を蒸し焼きにして不純物を取り去ることで燃焼効率がよく発熱量が高くなるものです。
かつては、学校や家庭のストーブにも一般的に使われていました。
現在はゴミ焼却場でも使われているそうですが、価格が高騰していて自治体の財政を圧迫しているそうです。
当時の夕張の小学校では、もちろんダルマストーブのコークスでした。
日直で灰取りと捨てに行くのに当たる日は、帰りが遅くなり嫌なものでした。

当時の作業風景。
- 2011/11/29(火) 16:52:52|
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