道道を清水沢から紅葉山方面に走行していくと、沼ノ沢の1部にて何やら碑が見れました。

交通安全のパトライトもあり、注意喚起しているものだとわかります。
しかし、小さなお地蔵様もあり、ただの交通安全の看板ではないようです。

碑は木製で、文字はかなり見えなくなってきています。
現在でも花が手向けられ、どなたかに縁のある碑で今でも大切にされているのがわかりました。

『交通安全祈願塔』と『地蔵尊』
由来
この直線道路が昭和40年4月に完通してから、交通量が多くなり見通しがよいことからスピードがアップしたのか、昭和46年から50年までに沼ノ沢地区の住人がこの付近で7件の交通事故にあい3名が死亡しているそうです。
この塔は昭和50年10月に沼ノ沢町内会が、犠牲者の霊をなぐさめ、町内の事故絶滅を願って建立したものでした。
地蔵尊は昭和49年12月にこの付近で事故死した2部の松田さんの遺族が建立したものだそうです。
そのせいか、祈願塔の建立以降この付近での事故は全くなくなっているらしいです。
今でも毎年町内会で祈願祭を実施しているのだそうです。
木製の木は桂の木、地蔵尊は御影石。
由来がわかると、なお一層事故には注意しなければならない場所とわかりました。
確かに、ここはスピード出てしまうところかも知れませんから。
スポンサーサイト
- 2012/04/20(金) 00:40:23|
- 沼ノ沢
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0

沼ノ沢三部、沼ノ沢小学校(緑小学校)の奥に沼ノ沢神社があります。
明治35年9月建立。
当初は北側の一部に建立されましたが、その後七部に遷され、明治45年に現在の地に遷されました。

元旦前の神社でして、とても静かです。

手水舎は大正時代の物です。
境内には石碑がいくつかありました。
どれもかなり古い碑で、歴史を感じさせます。

3つとも馬頭観世音でして、2つは大正元年と大正2年に建立されたものだそうです。
小さい碑は建立年不明ですが、一番古そうです。
元々は、沼ノ沢橋の手前の山頂に建立されていたのを、昭和34年にここに遷されたそうです。
当初は3つ並んで置かれていたのを、平成になって石野伊太郎建立の碑だけ台座を新しくしてありますが、ご子孫が用意されたのでしょうか。
沼ノ沢の発展は真谷地炭鉱によるところが大きく、また林業農業と馬は欠かせない動力でした。

忠魂碑は、建立年不明。
陸軍中将正四位 勲一等功三級 内野辰次郎書。
元々は六部公園の丘に建立されていたのを、昭和28年7月にこちらに遷されたようです。
日露戦争後、当時は沼ノ沢には在郷軍人会がなかったことから、有志により戦没者の霊を慰めるために建立されたようです。
この碑も、平成になってから台座を新しく建て替えたようです。
沼ノ沢の歴史が数多く残されていた神社。
元々は、一部と七部のどこにあったのか。
馬頭観音と、忠魂碑は元々どの場所にあったのか。
だんだん調査すべき対象が増えてきて、解決しない課題が山積みになってきました。
- 2012/01/02(月) 23:31:29|
- 沼ノ沢
-
| トラックバック:0
-
| コメント:4

沼ノ沢の道道から夕張ユースに向かう道に入ったところにある我妻橋に掲げられる河川名を記したプレート。
「パンケマヤ川」と書かれている。
しかし・・・

地図で確認すると「ペンケマヤ川」となっています。
どの地図を見てもペンケマヤ川であり、わたしの見間違いかと・・・

やはり、どう見ても「パ」です。

ペンケマヤ川の「ペンケ」とは「上流の」という意味で、「パンケ」は「下流の」という意味です。

夕張市史によると、古い地図では現在のマヤチ川を「パンケマヤ川」と表記されていると断言しています。

我妻橋の下の豊田橋には、河川名の表記はありません。
ネットを検索してもパンケマヤ川ではほとんどヒットしなくて、夕張の河川名の地図にも出ていません。
『パンケマヤ川』上のプレートは単なる間違いなのか、それとも伝説の河川名を歴史に残そうとした配慮なのか。
我妻橋の謎がいつか解明されることを願います。
後日ご近所の方に聞いてみると、この川は「ペンケ」と言っているよ。ということでした。
橋のプレートは「パンケ」となっていますよ。と言うと、知らなかった・・・ということでした。
我妻橋の下にこんな看板もありました。

- 2011/11/10(木) 21:35:54|
- 沼ノ沢
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0