
義経号(よしつねごう)
明治13年にアメリカのポーター社から輸入し、弁慶号とともに北海道で最初に走った蒸気機関車。
大正12年に民間工場の入換え用に払い下げとなり改造されて働いていたが、国鉄開業80周年記念事業の一つとして、昭和27年に旧国鉄にて復元されました。
現在でも大阪で展示保存されています。

当時の夕張川の橋
工事はとても困難を極め、沿線予定地は沼沢地が多く草木繁茂して人道とてなく、材料の運搬は予想外に難攻しました。
河川の上流下流も判別し難く洪水量を測定できなかったため、最初は木で橋を作り水位を見極め様子を見て鉄橋に架け替えられたそうです。
路線変更で北炭社長更迭という問題にまで発展した夕張炭山支線でしたが、明治25年11月1日に追分-紅葉山-夕張の42.5キロの開通に至りました。
開通式は義経号がやってきて盛大に行われたと伝えられています。

開通翌年 明治26年の夕張駅構内の様子

現在の同じ場所
記念すべき夕張線の開通で走行した義経号が、30年前に小樽に来ていた時の動画がありました。
リンク→
SL義経号が小樽を走る 夕張炭山は、明治25年3月の営業出炭開始、11月の鉄道開通と、にわかに活気をおびていました。
こうした中、暮れも押し迫った12月30日、夕張炭山を揺り動かす大暴動が起こります。

奈良飯場の工夫数名が炭山採炭所に赴いて、賃金の値上げと米と味噌の貸与を願い出ました。
年が明けて1月3日には、採炭所の石橋所長の自宅に押しかけ同様の願いを申し入れました。
これに対し採炭所は、米と味噌は承諾しましたが、賃金は結論を先延ばしにしました。
工夫たちは引き下がったものの、この要求に加わらなかった大塚・石神飯場に押しかけ糾弾しました。
ご愛嬌で出された酒をたらふく飲んだ工夫たちは勢いに乗って街に繰り出しました。
そこで、博徒の経営する料理屋で客と工夫の一人が衝突し怪我をしました。
それに怒った工夫たちはたちまち料理屋になだれ込み乱暴を働き、勢い街中をまきこむ大騒動に発展してしまいました。

『放火の方は未遂に終わったが、倉庫を破って米味噌を担ぎ出す、市街地を荒らす、略奪した塩鮭をかじりながら四斗樽の鏡を抜いて酒をあふるなど手も足もつけられぬ狼藉をやった。商家は三昼夜も雨戸を閉めて外へ出なかった。』(風雪六十年)
この騒動に加わった工夫は約300人、首謀者は飯場の親方の奈良・石川だったといわれていますが、新興夕張炭山にとっては予想外の空前の出来事であり、地の底で命を賭けて働く工夫の底知れぬエネルギーをまざまざと見せ付けた事件でした。
まもなく、警官や役人が乗り込んできて暴動は鎮圧されました。
この事件の後、北炭は飯場制を廃止し、工夫の全員直接雇用にするという制度への切り替えを発表し歓迎されましたが、飯場主のピンはね分がなくなったことを考慮して賃金10%の減額をおこないました。
賃上げ願いを保留していた所長の回答は、結果的に逆に賃下げするという驚くべきものでした。
参考資料: 夕張の火は消えず 炭鉱に生きる 北炭七十年史 写真集明治大正昭和夕張 歴史写真集みかさ
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- 2012/05/08(火) 01:00:16|
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明治23年、開坑に着手した夕張炭山には、まだ鉄道がありませんでした。
二股峠の道路が唯一であり、馬車により物資や食料の運搬がされていました。
この年の10月に、ようやく室蘭から空知太(現在の砂川北部)までの線路工事が始まりました。
この路線は小樽手宮から三笠幌内の路線と岩見沢で交差するものでした。
港が室蘭で計画されたのは、小樽港は混雑し、また海外への需要も増加していたため太平洋側に石炭運搬の玄関口が必要だったためでした。

北炭初代社長 堀基
■夕張支線路線変更の大問題発生で堀基辞任夕張炭山へは、この室蘭線から分岐して線路を敷くことが決まっていました。
しかし、計画では分岐点は馬追(現在の由仁)であり、栗山を通り二股から山を越えて夕張炭山に敷く計画で認可されていました。
明治25年2月、北炭はこの山越えの路線工事の難易度、経費、将来の開発計画などを考慮し、追分を分岐点にした大幅な計画変更を道庁に願い出ました。
これが、お上をないがしろにした勝手な行動と解釈され大問題になりました。

開拓当時の道庁は、黒田長官を始め薩摩閥が全盛であり、後の永山長官も北炭社長の堀も、その他要職のほとんどが薩摩で独占されていて、北海道は薩摩閥の天下のようでした。
官営鉄道・炭鉱の北炭への払い下げも、その黒田が首相になり、このような薩摩閥の勢い談合のような筋書きで決められたものでした。
この、路線変更は薩摩閥の永山長官時代ならさほど大した問題ではなかったはずなのですが、タイミングが悪かったのでした。
黒田内閣が更迭し、北海道も渡辺新長官に変わり、薩摩閥の独善的な手法は目に余るものとして全国的に批判の的になっていた時分でした。
北海道の要職から薩摩閥を追放する動きの中で、その本丸と目されていた北炭社長の堀を追放する口実として、政府を冒涜する勝手な路線変更と批難しました。
北炭は、道庁から派遣された技師の指示にしたがったものだ。と反論しましたが、この問題は国会でも追及され、ついに3月24日、初代社長堀基はやむなく引責辞任しました。

堀社長辞任により沸騰した世論も静まり、鉄道庁長官の井上勝が実情調査をした結果、路線変更は妥当な措置であると判断し、結局現在の追分分岐による夕張支線が認可されました。
一方今度は、民間会社の社長を株主の意向を聞くことなく、役人が勝手に罷免したのは不当だとして世論の注目を集めることとなりました。
防戦に回った道庁は、一定の条件のもと会社と株主の意向に沿う形で、次の社長が決定されました。
明治25年4月4日、高島嘉右衛門が北炭2代社長に就任しました。

高島嘉右衛門
夕張支線開通間近のこの頃、時同じくして明治25年、一番坑にて夕張初の大規模ガス爆発が起きます。
明治23年に坑口二箇所、24年に更に二箇所を開坑、主力は千歳坑(一番坑)と天竜坑の位置でした。
鉄道開通前だったので、掘り出した石炭は山元に貯蔵している頃でした。
本町炭山以外は原始林に覆われていましたが、市街には料理店、酒屋、呉服店、劇場、雑貨屋などが1丁目に5、6軒、2丁目に7、8軒出来て、人口も急速に増えていました。
4丁目5丁目や旭町などは、まだ熊笹に覆われていました。
選炭場もまだなかったので、シホロカベツ川は水は清く鮭が登って来るほどだったようです。

明治25年8月20日、一番坑内のガスに引火し(カンテラの火か?)突如大爆発が発生。
男女18人が死亡する惨事となりました。
当時の一番坑は水平展開の坑道で、シホロカベツ川沿いの炭層を沿層堀採炭をしていた、いわゆる小規模なタヌキ堀から、坑夫の槌組編成による残柱式採炭に切り替えられていった頃でした。
通風坑道というものがなく、坑道が延長するに従って換気を維持するのが困難になり、未熟なガス払いのようなものや、驚いたことにタバコの火をつけて燃やしたりしていました。
このような安全管理の意識の低さから坑夫の不安は増大、士気や出炭量が低下していた矢先でした。
せんの木物語の項目に出てきた爆発事故はこの事故のことで、丁未の若いアイヌ夫婦が犠牲になっています。

こうした災害対策として、後に夕張炭山として始めての一番坑に通風坑道が作られ扇風機が取りつけられました。
この通風坑道は丁未の奥に最近まで残っていたそうですが、いまは消滅しているようです。

夕張神社境内に残されている「鉱業従事者遭難哀悼碑」。
明治28年建立のこの碑は、夕張で最も古いものだそうです。
北炭の記録には、この年までは死傷者が出た事故の記録がないのですが、20人以下は省略と書かれているので、明治25年のこの事故や小規模な事故は無数に起きていたことによる建立だったと思われ、この碑が上記の事故を指しているのは明らかだと思います。
※参考資料 夕張市史、地底の葬列、わが夕張、風雪60年、北炭70年史、夕張の火は消えず
- 2012/03/28(水) 02:15:00|
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「登川村のはじまり」の続きになります。
このあたりから炭鉱の酷な状態が現れてきますが、目を背けず確認していきたいと思います。

夕張より一足先に開坑していた三笠の幌内炭鉱では、官営の業績不振の影響で、明治20年から採炭事業を空知監獄に移し囚人労働によって経費を抑え、一時は1500人もの囚人を坑内で作業させていました。

■幌内炭鉱 空知集治監外役所(囚人施設)
賃金は、一般労働者が1日40銭だったのに対し、囚人は17~8銭で使え、住居はタコ部屋同然の雑魚寝で劣悪な保安衛生にも文句を言う者もいなく、経営者には好都合な労働力でした。
なおかつ、危険な未開の地に自発的にやってくる者はいなかったので、採炭に従事する者は囚人、罪人、破産者、生活に困窮して売られた出稼人がほとんどでした。
そのため、一度炭山に足を踏み入れると出ることは極めて難しく、経営者の鋭い監視の下で行う奴隷労働と虐待のため疲労困憊し、衛生環境の悪さから伝染病などもあって死亡者が続出し、働けなくなった者は生きたまま土葬された者もいました。

夕張では幌内に遅れること約10年、明治23年に採炭所が開設され開坑着手されました。
夕張炭山の採掘権は最初から北炭が持っており、官営ではありませんでしたが、上記のように炭鉱は”炭山地獄”の悪名が世に広がっていた時代だったので、夕張に大勢の坑夫を集めることは困難でした。
そのため、便宜上親分肌の人物を求め、その親方の出身地や縁故関係で坑夫を集めて、その生活、賃金、労働の一切の責任を持たせる飯場制度(組夫請負制度または納屋制度)を採用しました。
北炭の直接雇用ではなく、下請け会社のようなものだと思われます。
夕張採炭所の完成に先駆けて、明治23年4月には簡易的な診療所も設置され河北柳三郎医師が嘱託で赴任、北炭関係者やそれ以外の住民の診療にも応じていました。

■この頃の労働者
しかし、この飯場に召集されてくる者たちも幌内炭鉱とほとんど変わらない者たちでした。
明治23年当時、登川村はなんら秩序の見るべき者もなく、身体豪傑なだけで働かない者でも寄せ集め、中には免囚や逃亡者、破産者や賭博者などいかがわしき無類の者が多く、殺伐な気が満ち溢れ別世界のような有様でした。
治安維持に対する何らの機関もなく、博徒が徒党を組んで覇権を争い闘争が後を絶たず、しばしば労働者が採炭をボイコットして暴徒化することもあり、さらに飲酒、痴情、賭博に起因する傷害沙汰は日常茶飯事であり、あるいは殺人、死体遺棄など戦慄すべき事件は随所に行われていました。
当時の登川村は市来知警察署(三笠)の管轄でしたが、官憲はおらず、あまりの惨状に北炭が請願して、明治24年10月に巡査派出所がようやく設置され、池田真清巡査が着任しました。
これが夕張警察の始まりでした。
(消防組織は明治30年までありませんでした)

■一番坑貯炭場 ※石炭の歴史村がある場所

■一番坑(後の千歳坑) ※夕張最初の坑口。石炭の歴史村北側の駐車場がある場所に現存しています。
飯場制度は、飯場の親方が鉱山から現場を預けられ、会社からもらう手当てや歩合は一括して親方が受け取り、親方の裁量で坑夫に支払われました。
会社は親方さえ抑えていればよい極めて効率的な制度でしたが、多くの飯場では中間搾取が甚だしく、労働者は酷使され、病気でも会社に関係ない場合は医療も満足に受けられませんでした。
労働時間は、1日2交代の12時間労働、休日は月1日でしたが、先山級は実働4、5時間、月に半分程度の労働でした。
一般坑夫の賃金は25銭くらいでした。
同年、新夕張炭鉱(末広)の炭層では、坂市太郎がみずから試掘権を獲得していました。

■後の實相寺
宗教は、上記のような人心荒廃に対して人々の精神を安定させる行が始まりました。
明治23年5月には後の實相寺の僧侶が、労働者の住まいを借りて説法を開始。
同年10月11日には、札幌大谷派本願寺が開宣、現在の希望の杜診療所のところに笹小屋を建てて説法を開始しました。
同年12月には大法寺が居を構えました。
明治24年頃、夕張神社の前身の拝殿が社光に建立されました。 ※住初・夕張神社の項目を参照
商業は、明治23年10月に住初社宅付近に日用雑貨を扱う笹小屋が3、4軒建てられたのが市街地の始まりでした。
教育は、明治23年12月に北炭社員の稲沢保吉の夫人が、採炭所の物置の一部を借りて社員と坑夫の子弟12、3名を集めて習字、読書、算数の初歩を教えたのが教育の始まりでした。
交通は、明治22年に角田村に泉麟太郎率いる大量移住があり、この地の草分けになり、岩見沢-角田間に刈り分け道路が作られました。
翌23年には、空知監獄の囚人を使ってこの道路を改修延長して夕張炭山まで完成させました。(二股峠の道路)
しかし、道路工事といっても当時は、単に山を崩して地ならしをする程度で、橋はなく、河川が増水すると埋まって寸断するような有様でした。
明治24年には、登川村でも鉄道工事が始まっていました。

■二股峠
明治23年から24年に掛けての、人口300人足らずの夕張炭山勃興の出来事をまとめました。
次回は、明治25年の鉄道開通・一番坑爆発事故を中心に調べていきたいと思います。
※参考資料 夕張市史、新夕張と共に、写真集明治大正昭和夕張、歴史写真集みかさ
- 2012/03/05(月) 00:53:54|
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