あの頃の夕張を求めて

澄みきった空気、山並みに囲まれた豊かな自然の中で、炭鉱で開かれた先代の営みの上に、貧しくものびのびと成長した、そんなあの頃の夕張を探す画像ブログです。

登川村のはじまり

夕張という名が、行政面に現れたのは明治元年7月26日の開拓使触書です。
北海道を11の国に分け、そのうちの石狩国の中の7郡のうちのひとつでした。
石狩郡、札幌郡、樺戸郡、空知郡、雨竜郡、上川郡、夕張郡の7つでした。
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国が決められたとはいえ、この当時北海道の人口は和人10万人、アイヌ2万人と推定されており、そのほとんどは道南の海岸に集まっていて、札幌でも家が2軒あっただけで北方内陸はほぼ無人の山林地帯でした。
石狩国内の郡の境界は、松浦武四郎の地図にテープを貼って決められ、夕張郡は明治2年8月に高知藩の支配地となりました。
しかし、夕張郡では何も手を付けないうちに、明治4年8月北海道すべてが開拓使直轄になり支配地は返上させられました。

明治7年2月15日より、石狩国は9つの大区に分けられ夕張郡は第9大区となりましたが、定住者はいませんでした。
明治12年7月には郡区制がしかれ、石狩の親船町に石狩国合同の郡役所がおかれ、夕張郡はここの管轄になりました。
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明治15年に開拓使が廃止され、札幌県、函館県、根室県がおかれ、17年に札幌にあった郡役所の管轄に移りました。
しかし、この頃の北海道の全人口は26万5千人で、そのうち15万人が函館県であり、根室県に至っては17000人という人口格差で3県体制がほぼ機能していませんでした。
※明治元年から1年間だけ函館府が置かれたり、明治4年から1年間だけ松前の一部が青森の弘前県に編入されたり、北海道の扱いがまだまだ定まっていなかった時代を感じさせます。
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県議会も役所も正式に設置されないまま、明治19年2月で3県が廃止、変わって北海道庁が置かれました。
この頃、農業開拓が始まっていた岩見沢には戸長役場が置かれました。 のちに夕張はこの岩見沢戸長役場管轄になります。
しかし、この時点では夕張は無人であり、坂市太郎が大炭層を発見するのが明治21年です。
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明治22年10月、北海道炭鉱鉄道会社が創立、夕張炭山にも数件の人家が建ち、ここに集落としての人の集まりが開始されました。
明治23年6月27日、現在の住初に夕張採炭所がついに完成。(上写真 赤〇)
社宅や事務所も住初に建てられました。
鉱夫130名を就業させて開坑に向けて着手しました。
同年8月7日、夕張郡登川村(夕張の旧名称)が告示され、岩見沢役場の管轄になりました。
村代表の総代人は、阿野呂 (現二股継立が登川村にはいっていた) の林梅五郎と、採炭所事務主任だった大塚永太郎でした。
建前は選挙で総代人を選出することになっていましたが、実際には官選で決められたものだったようです。

※当初、登川村の役場があったのは岩見沢であり、集落としては現在の本町以北の夕張炭山といわれた地区が登川村中心地であり、その開発で人々が集まっていました。
現在の登川とは地域が異なるものです。(登川村南東部に三井鉱山としては村唯一の三井登川炭鉱が明治42年に開坑しており、大正9年に登川村から夕張町に変更されても三井登川炭鉱の名称は残り、そのまま現在の地域に登川が定着したものと思われます)
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同年、鉄道は室蘭線が着工され空知を目指していました。
翌、明治24年末には、登川村の人口は65戸307人になりました。
隣の角田村は168戸505人、由仁・栗沢・長沼合わせて68戸290人でした。
この頃の日本の人口は約4000万人でした。

※登川の名前の由来は?
アイヌ語のヌプルベツ(濁った川)がヌプル川→登川 のようです。
登別もヌプルベツが語源だそうです。
※明治21年から24年までの日本の主な出来事は、大日本帝国憲法、第1回帝国議会、電話創業開始などです。
※昭和56年発行の写真集には、「最初の夕張採炭所跡は現在はテニスコートとして使用され、採炭所の石造りの倉庫は現存しています。」と書かれていまして驚きます。 現夕張神社の南側にあったそうで、現存していれば夕張最古の建築物となりますが確認していません。
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■昭和51年 航空写真  夕張で最初の採炭所付近

参考資料 : 夕張市史
  1. 2012/03/01(木) 02:34:57|
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北海道炭鉱鉄道会社の創立

明治6年にライマン探検隊が発見した三笠の幌内炭田が空知の炭鉱の始まりでした。
また、その石炭輸送には鉄道が欠かせないものでした。
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明治12年に幌内炭鉱開坑に着手、明治15年に小樽手宮から三笠幌内まで鉄道が開通、空知の炭鉱の歴史はいち早く幌内で華々しく幕開けしていましたが、初期の炭鉱は政府の官営炭鉱であり、明治21年までの6年間で黒字だったのは2ヵ年のみで、他の4年間は莫大な赤字を計上しており、経営感覚の欠落と官僚的な非効率さは誰の目にもあきらかになっていました。
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販路はほぼ道内に限られ、道外に販促拡大することができていませんでした。
それにもかかわらず石炭の荷捌きは常時渋滞をし、粉炭などの副産物の商品価値を見出せず、その処理のために逆に費用を掛けていたほどです。
隣の幾春別炭山は、経営不振のため早くも休山を余儀なくされていました。
このような非効率の穴埋めに、採炭事業を空知監獄に移し囚人労働を投入したりしていました。
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明治20年、炭鉱経営の大幅な見直しに着手した道庁は、大胆な民営化に舵を切ります。
販売事業は炭鉱鉄道事務所長であった村田堤と銀行頭取で実業家の田中平八が設立した北有社という商事会社が独占して行うことになりました。
村田堤は、翌21年には幌内鉄道や夕張炭山の権利も獲得しました。
現代と同じようなことが起きていたのですね。

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■堀 基 (ほり もとい)
北海道庁理事官であった堀と、これを支える薩摩閥は、薩摩出身の黒田清隆が長官になってからは北海道は全く薩摩閥の勢力に入っており、黒田が明治21年首相になってからは、堀は当時道庁長官だった永山武四郎をしのぐ勢力を持っていました。
道庁官僚のほとんどが薩摩閥という中で、炭鉱事業の現状に危機感を持っていた堀は、中央に出て黒田首相に北海道炭鉱鉄道会社創立案を提示し、さらに黒田は各界の賛同を得ようとしました。
創立発起人には、華族代表の徳川義豊候、日本郵船社長、日本鉄道社長、北有社の田中平八、社長は堀が官選され、言論界実業界からは福沢諭吉も同意をしていました。
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■明治21年竣工 旧北海道庁

明治22年10月、北炭の設立認可となり、手宮・幌内・幾春別の鉄道99.8キロ、幌内炭山の付属物件と幾春別、空知、夕張の権利一切を北海道炭鉱鉄道会社が持つことになりました。
同年11月18日、資本金650万円にて北海道炭鉱鉄道会社が発足し、本店を小樽手宮町に置きました。
初代社長は、改革派の急先鋒で自ら官職を辞して北炭創立を提唱した堀基でした。
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明治22年の同じころ、前年に大炭層が発見された夕張では坂市太郎が測量と地質調査を繰り広げており、ほぼ全域を把握したころでした。
そして、夕張炭山の採掘権は村田堤から北海道炭鉱鉄道会社が譲り受けました。

※明治39年10月に社名が北海道炭鉱汽船株式会社に変更しています。
※参考資料
 夕張市史
 歴史写真集 みかさ
 北炭70年史
  1. 2012/02/12(日) 14:56:03|
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坂市太郎

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坂 市太郎(ばん いちたろう)
1854年(安政元年) 岐阜県大垣市(美濃大垣藩)に生まれる。
武士の子として厳しく育てられ、藩の壬生義塾で高い学力を身につけます。

明治新政府が北海道を開発するため優秀な人材を育成する開拓使仮学校(東京芝増上寺)に、18歳の坂は明治5年に入学し、新しい時代を切り開く意欲に燃えていました。
その講師としてアメリカから招かれたのが、鉱山学者のライマン先生36歳でした。
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カリキュラムは、5年はかかるであろう各専門分野を3年で習得してもらうという厳しいものでしたが、坂は全力で学び2ヶ月で学費が免除されるほどの成績を上げます。
しかし、このような机上の学習ばかりではなく、早く実践に移したいという欲望がわいていました。

それから1年半後、開拓使からライマン先生に北海道地質測量の命が下りました。
坂は成績優秀な学生13名に選ばれ、一同興奮の中、明治6年3月に北海道へ向けて出発しました。
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春になり、アイヌの青年を案内役で雇い、ライマン探検隊は出発しました。
空知、上川、苫前まで縦断しましたが、どこも原始林そのままの場所で背丈ほどある笹薮を歩き、熊の出現におびえながらの探検でした。
このような森の中で、開発に有用な場所を特定することは非常に困難でした。
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ある日、ライマンが貴重な発見をします。
第三紀地層と言われる石炭がある層でした。
この地層は南北に横断しているものと思われ、奈井江、美唄、砂川あたりを調査して、ついに三笠の幌内炭田を発見します。
一気に士気が盛り上がり、ライマンはもっと奥には大炭層があると確信し、舟で夕張川を遡ることにしました。
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しかし、夕張川は流れが速く逆らって上流に向かうのはとても困難でした。
そして、滝ノ上の千鳥が滝で完全に前進できなくなってしまい、これ以上進むのは無理ですと案内役のアイヌの青年にたしなめられ、坂たち学生は尚も前進を訴える中、ライマンは全員の安全な帰還を優先に考え、宝の山を目前に撤退を決断したのでした。
「今はやむなくここから引き返すが、一大炭田は必ずこの上流に続いているに違いない。ここは地質の関係より推察して確実である。機会を見てぜひ詳しく調査するように。」
帰りの舟は、一同無言で涙をうかべていたそうです。
舟にうずくまり水面を見つめているライマン先生を見て、坂は決心しました。
一番悔しいのは先生だろう。いつか必ずあの岩礁を乗り越え、先生が実現できなかった発見を成し遂げようと。
~~~~~~~~
それから14年の年月が過ぎ、坂は中央省庁の官僚になっていましたが、明治20年 北海道庁の技師としてこの地に戻ってきました。
北海道庁は、夕張の石炭を発見しようとそれまで何度も探検隊を送っていましたが、すべて失敗しており、いまだに夕張川上流に到達したものはいませんでした。
夕張の石炭は誰も見たことのない、ほとんど伝説と化しており、政府の鉄道計画も空知炭田の見積もりが夕張がわからないために進まない状況が続いていました。
そんな混沌とした状況を打破するべく、坂が周囲の反対を押し切り夕張探検に志願します。
明治21年 探検の許可が下りました。

5月、前回の失敗から川ではなく、陸地を進むルートを選び、坂のほかに和人1名アイヌの若者7名という探検隊は、既に開鉱していた三笠の幌内炭山を南に向けて出発しました。
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奥地に進むにつれ、大木が林立して笹薮だらけになり、日光が陰った薄暗い森を進みました。
途中、岩が裂けたようなとてつもない谷底の崖にぶちあたりました。
もうここから先に進むのは、坂以外の全員が不可能だと思いました。
坂は、太いナラの木を倒し崖に架けるように指示し、その木をわたる決意をします。
その丸太の橋を誰も渡ろうとしないのを見て、坂は命綱なしで一番で渡ってお手本になりました。
一歩間違えば谷底に転落即死という状況にもひるまず進む市太郎の粘り強さに圧倒され、全員が丸太を無事に渡りました。

そうして幌内を出発して一週間が過ぎた頃、森の先に川のせせらぎが見えました。
あそこで一休みしよう。
その河原について皆が腰を下ろしたとき、坂が突然走り出しました。
「何か光ってるぞ!まさか!おーいみんな、石炭だ!!」
それは、シホロカベツ川沿い高松の層の厚さ7メートル、瀝青炭の大露頭でした。
全員が足の痛みも忘れて走りより、両手を広げて大発見をした坂を祝福しました。
同行したアイヌの仲間も歓声を上げ涙を流して喜んだそうです。
坂市太郎35歳のときの快挙でした。
「ライマン先生の夢が叶いました、やはり夕張に石炭がありましたよ。」
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夕張の石炭発見のニュースは全国に轟き、2年後には採炭所が開設されることになりました。
それから坂は、困難といわれた夕張川上流の地形の測量も達成、成功しました。
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大炭層の発見から5年後、明治26年40歳で道庁を退職しました。
その後は、若かりし頃自分が探検して回った歌志内、赤平、夕張の炭鉱開発を個人で乗り出し、大正6年には上歌志内に坂炭鉱株式会社を設立、実業家として炭鉱開発の盟主となりました。
武士の子として、地質学者、探検家、実業家として、北海道に魅せられ類まれな人生を送った坂市太郎は、大正9年この世を去りました。 享年66歳。 

参考資料:夕張市史、北海道100年物語
  1. 2012/01/28(土) 15:06:00|
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夕張は人生のふるさと。鹿ノ谷で過ごした楽しかったあの頃を決して忘れません。現在は札幌在住。
往年の夕張を追い求めています。
上の写真は探索専用パジェロミニ。
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カメラ:Nikon COOLPIX P500

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