
明治21年に、坂市太郎一行が発見した石炭の大露頭。
いまは、天然記念物として北海道指定文化財に登録されています。
石炭の歴史村内、炭鉱生活館のすぐ裏側の敷地内に広がっています。

シホロカベツ川沿いに南側へ、天竜橋に向かって石炭の露出が見られます。
この写真の手前に、穴をブロックで塞いだような箇所がありますが・・・
なにやら折れ曲がった看板もみえます。

『古 洞 天竜坑坑道跡』
歴史館の係の方に確認すると、やはり最初の天竜坑だそうです。

まさに、石炭の露出している部分をめがけて掘り進んでいったのですね。

後の天竜坑。
上の古い坑口は、このすぐ上の露頭のところです。

天竜坑の目の前には坑口神社の跡がありました。
これは昭和になってから作られたもので、最近まで祠も残っていたそうですが、残念ながら祠は数年前のシホロカベツ川の増水で流されてしまったそうです。

明治24年に作られた、第一斜坑の坑口神社(夕張最初の登川神社、のちの夕張神社)とは違います。
その場所は、後日レポートしたいと思います。

昭和15年に、大露頭の真下に模擬坑が作られました。
このように、人の出入りが出来るように扉がついています。
ちょっと開けてみたら、開きました。
中を覗いてみますと、どうなっているのでしょうか。

坑口が見えました。
他は物置のようになっています。
さすがに階段を降りる勇気はなかったので、ここで引き返します。
ここでご紹介してしまい、扉に鍵がかかってしまったらすいません。
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- 2012/08/10(金) 09:49:23|
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ここは、小鳩保育園の跡地です。
社光と高松の間、先日のプトマチャウンぺ沢のところにありました。
つい数年前まで園庭の遊具は残っていました。

当時の社光、赤い屋根の小鳩保育園の姿です。
現在の建物の位置を入れましたが、住宅がすべてなくなり、今は公園のようになっています。
道筋だけは現在も確認できます。
航空写真なので平地に見えますが、左上から右下に向かって驚くべき急な登り坂になっています。

赤い〇が小鳩保育園 (ロケットマンさんの画像投稿)

赤い〇が小鳩保育園 (ロケットマンさんの画像投稿)

小鳩保育園かどうかはわかりませんが、当時の夕張の保育園の様子です。

現在の夕張駅前にある飲食店街屋台村の飾りに、本物の小鳩保育園の看板を見つけてビックリしました。
どこにあるかわかりますか?

この看板は、なぜか鹿ノ谷小学校に保管されていたのを見たことがあります。
ここのオブジェとして使われていたのですね。
今となっては、小鳩保育園の現存する唯一の物証となりました。
昭和28年4月1日、部落会により社光保育園として二区に開園したのが小鳩保育園の前進だと思います。
定員90人、職員9名の常設保育園でした。
夕張では7番目の保育所で、遠幌保育園、すみれ保育園(清水沢)と同時開園しました。
小鳩保育園は平成11年まで開いていました。
往年には無数にあった保育所ですが、現在は、新夕張保育園(末広)、清陵保育園(清水沢)、沼ノ沢保育園、紅葉山保育園、緑ヶ丘保育園(鹿ノ谷)と、市立ユーパロ幼稚園(清水沢)の施設が現存しています。
滝の上季節保育所も現存しているようです。
- 2012/07/07(土) 20:53:01|
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その昔、社光と高松の間にプトマチャウンべという大きな沢があったそうです。
明治期に採炭が始まるとズリ捨て場として堆積し地形を変え、沢はほぼ埋め立てられていたのですが・・・

わたしが以前来たときは、ここは細い川が流れていた平坦な地面でした。
わかりますでしょうか、地面が大きくえぐられ沢が出現しているではありませんか。
今年の大雪の雪解け水の濁流で地面が崩壊して、昔の沢の面影が現れたようです。
この上流500mくらいのところには白糸の滝がありますが、崩れた地面の端を歩く気になれないので、今回は取りやめます。

接近してみます。
画像ではわかりずらいですが、深さは4メートルはあるでしょうか。
足元を見ているとクラクラしてくる高さです。

ここは平地だったところで、普通に歩いて細い川をまたいで向こうにいけました。
なんということでしょう。
昔のコンクリートの資材なども流されています。

手前のこちら側の土地は小鳩保育園があったところで、園舎があったすぐ後ろの地面が大崩壊している状況です。

このプトマチャウンべの沢は、夕張炭山開発当初、社光・高松から福住を結ぶ吊橋(天竜の吊橋)もあり人々が行き交う町の中心地点であったそうです。
飯場、浴場、商店、巡視詰め所が建ち、社光には資材倉庫が立ち並んでいたそうです。
白糸の滝とは別に、シホロカベツ川との合流点には「センキの滝」という滝もあったそうですが、昭和29年4月の大雨と雪解けでズリ山が崩壊し埋没してしまったそうです。
また、この滝の付近には大井坑の竪坑が大正6年から14年まであったそうです。
明治の開発当初、この沢に飯場を持っていた松尾国太郎は、この沢でアイヌの居住跡を発見していたそうです。
アイヌがこの地域に具体的に居住していたお話は「丁未-せんの木物語」でご紹介したとおりです。
この沢はアイヌにとって、千歳・長沼馬追方面から夕張岳から日高・十勝方面へと抜ける重要な交通拠点であったと考えられています。
昔のように、もうズリ捨てが行われることもないので、このまま沢は深く削られ、炭山開発前の姿に戻っていくのでしょうか。
自然の不思議な力だと思います。
- 2012/06/17(日) 21:13:57|
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